論潮〈4月〉
高木 駿
半年ぶりの休暇を利用して沖縄を訪れました。沖縄に行くのはこれで四度目。人があまりいない地域でボケボケもしますが、どの滞在でも、現地の人たちと交流し、沖縄の歴史や文化への理解を深めたり、米軍基地、オーバーツーリズムや過疎化の問題を共有したりもしています。今回は、とある島で長年にわたり平和運動をされている方にお話をうかがう機会を得ました。
その方は、沖縄、その島、そしてその方自身の歴史、戦争との関係、現在の基地問題にくわえて、平和を取り戻すため、守るために何をやってきたのか、いま何をやる必要があるのかを語ってくれました。何度も何度も誰かに語り聞かせてきたはずなのに、その語りのなかには、戦争に対する「怒り」がまったく色褪せずに残っていて、圧倒されました。ただ、話をうかがうなかで、「平和のために役に立たない法律や制度はいらない」という趣旨の発言をされており、それには「すごいラディカルだなあ」とちょっとした驚きと違和感を覚えました。たしかに、平和のためにはときにはそうする必要もあるでしょう。それがわかっているのに、「なんで自分は違和感を感じてしまったんだろう?」、帰りの船のなかでお話を反芻しながら考えました。
そして、二つの理由に行きついたのです。一つは、自分が参加した政治のなかで制定された法や制度に従わないなら、政治参加の責任を果たしていないと感じてしまったからです。もう一つは、法律や制度に従うのが当然と素朴に考えていたからです。「自分は何て真面目なんだ」としみじみ思いました。しかし、この「真面目さ」は、僕の本質というよりも、僕(もちろんみなさんも)が生きてきた社会に由来しているのではないでしょうか? それに大きな影響を与えた要因には、新自由主義と呼ばれる考え方あるいは価値観があげられます。
新自由主義は、市場を社会の中心に置き、国家の介入を最小限にして、個人の自由な活動を推奨します。そして、よくこの考え方とセットにされるのが自己責任論です。個人が自由に活動するのだから、それによって生じた失敗や問題は、自分でどうにかしろという話です。いくら社会保障や個人同士の助け合いが大切だと言っていても、個人の失敗を見たときには、「自分でやったことなんだからちゃんと責任を取るべき」なんてことを、こころのどこかで思ってしまう僕は、間違いなく新自由主義を内面化しています。そのため、自分で何かを自由に選択したときには、政治参加の場合であっても、(結果はどうあれ)その結果には責任を持つべきだと考えてしまい、法律や制度に従わないという態度自体に無責任さを感じてしまったわけです。
新自由主義のなかで、国家は縮小され、国が担っていた公的機能(電力、郵政、鉄道など)が民間に委ねられました。そのため、民間組織には公共性が要求され、ガヴァナンスや説明責任、コンプライアンス、ポリティカル・コレクトネスが求められていきます。それらはさらに、組織から個人が守るものへと一般化し、個人の社会的関係においてさえ重視されていきました。結果、個人も自己を管理・統治しなければならないという世界観が支配的になります(森政稔「アナーキー 統治なき統治の理想を描く」、『現代思想』)。こうした世界観のなかで生きていれば、法律や制度に従うことが当然となっていっても不思議ではありませんよね。新自由主義によって、法律や制度、あるいはルールや決まりごとに対して従順にさせられていったわけです(興味深いのは、ポリコレなどへの肯定的態度からもわかるように、新自由主義を信奉する人よりも、それを批判するいわゆるリベラルな人の方が自己の管理や統治に厳しい点です)。
また学校教育の影響もあげられます。学校は常識や規律、あるいは遵法精神を教え込む場所として機能するだけでなく、学校外においてさえ「校則」という形でルールを守ることを要求してきます。学校の社会への影響が強くなった「学校化社会」を経て、現在は、学校に過度に依存した「学校依存社会」(内田良「学校依存社会 シャドー・ワークの行く末」、『世界』)にあると考えられています。こうした社会では、学校で教育された価値観や規範が学校外において大きな力を持つことは言うまでもなく、生徒は、学校でも家でも社会でも規律化されていきます。ここに、新自由主義的な世界観が足されれば、自己責任を重んじ、法律や制度に従うことを当然と思う僕のような「真面目な人」ができるというわけです。みなさんはどうですか? おそらく「真面目な人」に仕上げられているのは、僕だけではないはずです。
この「真面目さ」は、僕が平和運動家の方の発言に違和感を覚えたように、他者に向かいます。それがよりエスカレートすれば、「法律や制度、決まりを守れ。それが常識だ」といった圧力として他者を縛ることになります。もちろん、自分も他者から縛られます。これでは、互いが互いを縛る窮屈な社会、変化や例外を許容できない社会になっています。皮肉なことに、新自由主義は、自身が最も重視する自由を制限してしまうような社会をもたらすのです。
逆に、平和運動家の方のように、目的に応じて「不真面目」でいられることは、自分たちの本当の自由を取り戻す好機でもあると言えます。法律や制度を疑い、それらへと盲目的に従うことをやめ、自らの目的を達成しようとするあり方には、隷属状態を否定し、「実質的な自由」を実現しようとする「アナキズム」(橋本努「アナーキー 統治なき統治の理想を描く」、『現代思想』)を指摘することもできます。もちろん、平和運動家の方が「危ない活動家だ」と言っているわけではありません。たしかに、「アナキズム」と聞くと、反国家的な危ない思想を連想するかもしれませんが、その思想が重視するのは、人々が何かに隷属させられることなく、自由のもとで自分の理想を実現できることです。新自由主義の社会にあってアナーキー、つまり「不真面目」であることは、新自由主義が皮肉にも制限してしまった自由を取り戻し、その自由において自分が理想とする目的を実現する可能性を与えてくれるはずです。
ただし、そこでは、どんな理想や目的、そしてそのための方法であっても許容されるわけではないでしょう。二〇二四年の東京都知事選での掲示板ジャックや候補者の選挙活動の妨害、同年の兵庫県知事選での斎藤元彦陣営による相手陣営のフェイク情報の拡散、同人告発問題の百条委員に対する立花孝志による誹謗中傷などは、既存の制度や権力に対抗するように見え、アナキズムに親和的であるかのようですが、悪意を持って実行される点で「恣意的な支配、すなわち独裁」(森政稔、同、『現代思想』)につながります。アナーキー(「不真面目」)であることには、他者の自由を制限したり、傷つけたりしない最低限の倫理は必要なのです。(たかぎ・しゅん=北九州市立大学准教授・哲学・美学・ジェンダー)