2025/12/19号 3面

マスコミ

マスコミ 鈴木 雄雅  石破政権は一年もたず高市政権にとって代わった。「アベノ高市政権」(朝日)と揶揄されるごときお祭り騒ぎが始まると、「昭和百年」「戦後八〇年」という今年を飾る言葉が消えかかっている。「明治は遠くなりにけり」  とかつて言われたことがあるが、「昭和は遠くなりにけり」よりも、どう(戦争や被爆、災害体験を)「継承」「語り継ぐ」かが日本社会、メディアの重要な課題になりつつある。  戦前の同盟通信社が解体されるなかで生まれた公益財団法人新聞通信調査会は毎月『メディア展望』を発行する一方、これまで多くのメディア関係書の刊行、国内外のメディア調査の実施、公開討論会を開催してきた。新聞通信調査会編『戦後80年とメディア』と同編『分断国家・米国とシン国際秩序』(共に新聞通信調査会)の二書はいずれもシンポジウムを編集したものである。  「分断」が進み混迷する世界情勢をメディアはどう報じるか、SNS時代「公益」こそがジャーナリズム(メディア)の使命と識者が語る。送り手の役割、機能に焦点が当てられている。後書で作家の真山仁が、激動と混沌の時代「我々は如何にしてグローバル的視点を養うか」。研究者視点ではなく、庶民からの目線で講話しているのは意味深い。  従来の送り手論から言えば、国家、組織に限らず、人は自身にとって都合の悪いことは隠し、人は自身に都合のいいメッセージを好む傾向にある(先有的傾向)。分断本能やネガティブ本能など(ハンス・ロスリング『ファクトフルネス』)もそれにあたるだろう。そうした動きを制するのがジャーナリズムの役割のひとつであり、拡散されたメッセージをどう理解するか(できるか)の責任は、いまや受け取る(発信する)一人ひとりの社会的責務なのである。  前澤猛『冤罪の深層』(新聞通信調査会)は袴田事件や大川原化工機事件を丁寧に追い、(司法)検察の過ちを洗い出している。同時に刑事事件でなくとも、「冤罪」と深くかかわるメディア倫理の遵守を強く訴える。フェイク、陰謀論が蔓延する現代社会を危惧するとともに、積極的な調査報道を提言している。  さて、斉藤友彦『新聞記者がネット記事をバズらせるために考えたこと』(集英社新書)は目を引くタイトルだ。「面白くなければテレビではない」(楽しくなければテレビじゃない=フジテレビ、一九八一年)のごとき、ネットメディアのPVを稼ぐ実践方法の伝授か、と想起させるようでもあるが、実はメディア離れが進むと社会はどうなるか(第5章)という、ジャーナリズム活動に従事する著者の危機感を具現化している。  「共感」や感情に訴えるようなコンテンツが売れる(稼ぐ)のであれば、それに飛びつく人がいる。ユーチューブはじめ無数のメディアが増殖し、稼ぐことが目的化したメディアからの発信は、ジャーナリズム本来の機能とは真逆の「虚(噓)報」を量産している。一周回ってのイエロージャーナリズムの再登場と言える。  マス・メディアが「沈黙」することは権力の監視を放棄することであり、言論が不自由な国家を生み出すことになるまいか。  客観性や正確性をもってジャーナリズムが報道する意味は、社会・受け手が多様性を極める今日、多様なメディアが出現する状況であっても不変である。ニュースパーク(日本新聞博物館)+新聞通信調査会編著『多様性 メディアが変えたもの メディアを変えたもの』(新聞通信調査会)を読むと戦後マス・メディアがいかに社会改革に尽くしてきたかを垣間見ることができる。  米倉律『災後テレビドラマ論』(青弓社)も震災ドラマ、コロナ禍ドラマを読み解くことで、人々に何がどう伝えられたかを丁寧に説いている。  日本のみならず、極右に近い政党やポピュリズム政党が選挙の度にサイバー空間で台頭する現状を憂える声が高い。フランスメディア界を俯瞰する本を紹介しておこう。本間圭一の『フランス極右とメディア』(勁草書房)と『ル・ペン家の人びと 三世代でたどるフランス極右の実像』(創元社)、フランソワ・デュフール『ジャーナリズムの100語』(村松恭平訳、白水社)である。本間の前二書の主題は公共圏をめぐる社会、メディアの変貌を描き出した研究書である。  デュフールは言う、事実を伝えるジャーナリスト、コメンテーターのような「オピニオニスト」、インフルエンサーが混在する現代において「市民よ、誰があなたに情報を与えているか自問せよ」。(すずき・ゆうが=上智大学名誉教授・新聞学)