2026/03/27号 7面

追悼=最首悟(川本隆史)

追悼=最首悟 <師友・最首悟さんを/に送る> 川本 隆史  一  一五歳年上の最首さんが先立たれた。当人を前にしての「先生」呼びは慎んできた私だけれども、師であり友である先達に敬慕の念を抱いてきた。卒寿と初期・中期の作品集の刊行(現代書館より)を祝うパーティに馳せ参じるのを楽しみにしていたのに、お見舞いも果たせぬまま隠棲先の広島で訃報に接している。お名前を知らされてから五七年の歳月!――断続的な交流の記憶と記録をたどる作文をもって、追悼のメッセージに代えたい。  最首さんが初めて大手メディアに登場したのが、『朝日ジャーナル』一九六九年一月一九日号の小特集《非常事態宣言下の東大》に寄せた「玉砕する狂人といわれようと――自己を見つめるノンセクト・ラジカルの立場」である。この檄文は、「東大闘争において、私たちには勝利も敗北もないし、革命的敗北主義や玉砕主義をだれもとなえていない。[……]内へ内へと私たちが切開いた闘争をたぐりこみ、つねに自分を問い詰めてゆくかぎり、私たちの東大闘争に終りはないのだ」と結ばれる。過激なタイトルとペンネームとも思しき姓名だけは、一七歳の地方私立高校生の脳裏に刻まれたのだが、安田講堂攻防戦の直前にものされた文書の緊迫した真意は私の理解の外にあった。  再開された一九七〇年三月の東大入試にパスした私は、入学手続きもそこそこに、駒場キャンパスの一隅で開かれていた自主講座《解放連続シンポジウム 闘争と学問》の教室に足を運んでいる。入試・授業再開という「正常化」に抗して、折原浩さんや最首さんら「造反教官」と学生有志がこの連続シンポを立ち上げていたのは、つとに耳にしていたからである。私が末席に連なった何回目かの自主講座で、最首さんが夏目漱石の「自己本位」と「エゴイズム」の区別を引き合いに出したことがあった。それを聞きかじって、妙に納得したのを覚えている。  二  時計の針を、一九九六年三月末――最首さんが東大助手を「退官」して丸二年、大学院を退学した私が最初の大学に勤めて一六年が経った時点――にまで一気に進めよう。このとき、最首さんと市井三郎さん(「思想の科学研究会」会員)との激しい意見《衝突》の一件を、丸山徳次さん(当時、龍谷大学教員)から教わった。衝突の舞台を提供した色川大吉編『水俣の啓示――不知火海総合調査報告』(筑摩書房、一九八三年)を卒読して受けた衝撃は、今も忘れられない。  同年四月二八日、『思想の科学』創刊50周年記念講演「「思想の科学」の哲学は有効性を取戻しえたか――社会倫理の観点から」でこの論争ならぬ諍いを俎上に載せ、優生学的人間観に陥った市井の「失敗」から学ぼうと示唆している(会場:日本青年館)。なお市井の「失敗」への突っ込んだ分析は、一二年後に書き上げた論考「〝不条理な苦痛〟と「水俣の傷み」――市井三郎と最首悟の《衝突》・覚え書」(『岩波講座哲学01』、二〇〇八年六月所収)まで俟たねばならなかった。最首さんとの対質に基づいて、市井の立論における「脱集計化」の不徹底や「直接性」の軽視といった難点の指摘に行き着いている。  三  最首さんの「通常科学」批判=「問学」の最大の貢献は、私見によれば「内発的義務」論に極まる。この卓説は、四人目のお子さん(一九七六年生まれの星子さん)との暮らしを通じて鍛え上げられた直観とシモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』冒頭の命題「義務の観念は権利の観念に先立つ」との「反照的均衡」(ロールズ)から導き出された、ラディカルな倫理原則にほかならない。このキー概念に注目を促されたのが、哲学者・花崎皋平さんとの対談「自己決定権とは何か」(『現代思想』一九九八年七月号、青土社)の席上だったのであり、折よく上梓された『星子が居る』(世織書房)を合わせ読んで深く共感した。  翌一九九九年三月三〇日、アムネスティ・インターナショナル日本支部主催の《人権をめぐる対話シリーズ》で初めてご本人との対論に及び、翌年の「現代倫理学研究会」三月例会に最首さんをお招きした。勢いを得た私は、日本哲学会シンポジウム《正義と公共性》の発題原稿「均衡・義務・介護――現代正義論の方法と課題」(『哲學』五二号、二〇〇一年四月)の一節を「内発的義務」論の評価にあてている。二〇〇一年五月の学会シンポ本番に先立つ最首塾四月例会に呼ばれた私は、拙論の骨子を敷衍し、懇親会では広島カープファン仲間のお連れ合い・五十鈴さんとの対面がかなえられた。  そうして二〇〇五年八月、満を持した編著『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』(有斐閣)を世に送った。最首さんには第8章「ケアの淵源」を寄稿いただいている。翌年の二月一八日、第47回最首塾企画として編著の合評会を開いてもらい、翌月四日には最首さん、「介護の職人」の三好春樹さんと私のトリオ講演および鼎談が実現した(ブリコラージュセミナー《介護が思想を求めている》、東京・全林野会館)。次いで二〇〇八年三月二二日の最首塾例会での報告と討論を踏まえ、何とか活字化したのが前出の『岩波講座哲学01』論文なのである。この例会報告では、最首さんとの二つの共通点――喘息の持病を抱えており、かつ配偶者が同じ広島県の大崎上島生まれであること――を前振りに持ち出しておいた。  その後も今村純子さんの計らいにより、パネル・ディスカッション《シモーヌ・ヴェイユと〈いま・ここ〉》を同席する(二〇一〇年三月七日、慶應義塾大学)などの交流を重ねてきた。たぶん最後に(パソコン画面越しながら)ことばを交わしたのが、二〇二三年一月二一日だったろう――この最首塾例会において、「ケアの倫理」を首唱したキャロル・ギリガンの『もうひとつの声で』(山辺恵理子さん・米典子さんとの共訳/風行社)の合評会を催してくださったのである。  稿を閉じるにあたり、最首さんが二〇年近くも前に発した呼びかけの《声》に耳を澄ませるとしよう。  「私たちの自発する義務は、情に基づいて、弱い者をかばうということにある。さまざまな被覆を取り除いて、素直に自分の生きがいを取り出すなら、それはより大きく、より強く、より高くではなく、弱く生きがたい者を守って生きることではないだろうか。水俣の地にある福子思想はその光る表現である。弱い者をかばい養うという発露する義務に基づいて、社会制度を組み直す、今はその正念場だという気がする。」(水俣病センター相思社機関誌『ごんずい』一〇〇号、二〇〇七年)  さようなら、また逢う日まで。(かわもと・たかし=「問学」徒・アーキビスト)  さいしゅ・さとる=思想家。二〇二六年二月八日、肺炎で死去。八九歳。  一九三六年生。和光大学名誉教授。東京大学教養学部助手時代に「東大助手共闘会議」を結成。第二次不知火海総合学術調査団団長を務めた他、障害者の支援活動にも携わる。著書に『半生の思想』など。