庄司薫の死に触れて(寄稿=鎌田哲哉)
<「みんなを幸福にする」の行方>
ベストセラー『赤頭巾ちゃん気をつけて』などの著作で知られる庄司薫氏が四月五日に亡くなった。八八歳だった。同作につづく『さよなら怪傑黒頭巾』『白鳥の歌なんか聞えない』『ぼくの大好きな青髭』と合わせて、〈薫くん四部作〉と呼ばれ、いずれもベストセラーとなり、世代を超えて読み継がれている。批評家の鎌田哲哉氏に、追悼論文を寄せてもらった。 (編集部)
庄司薫=福田章二が死んだ。訃報に接して、ひどい言い方だが「やっと死んだ」「庄司はむだに長生きした」「結局一発(数発?)屋で終った」等の印象を拭えなかった。どこか卑しく薄ぺらな死にさえ思えた。おそらく、この作家は文学的にはとうに、何十年も前に死んでおり、身体現象としての死がようやくその事実に追いついたにすぎない。――それなのに、私は今自ら手をあげてこの感想を書いている。それはなぜか。一体私は何を追悼しているのか。
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まだ駒場の二年だった大昔(一九八二年)、やはり数年前に死んだ宇野派の経済学者伊藤誠と、庄司について自由に話す機会があった。自主ゼミ「資本論読書会」が終った後だと思う。彼はいつも通り淡々と、「庄司薫は日比谷(高校)で僕の一年下。でも、大江健三郎と比べると力量の差は明らかじゃないかな」と言っていた。それは公平かつ客観的な評価でありながら、こちらの浅薄な読書傾向を即座に見抜いた上での、婉曲で思慮深い忠告だったかもしれない。だが、伊藤ばかりか同期同学年の友人に対しても、当時の私は素直にそれを受け入れられずにいた。
たとえば、『赤頭巾ちゃん気をつけて』とほぼ同時期の『洪水はわが魂に及び』を比べよう。前者が「東大入試の中止」直後に、この事件を素材に即座に書かれたのは確かだが、それを理由に作品が軽くて風俗的だと言うなら、後者が同じく「あさま山荘の鉄球」や「放水」を素材に、やはり条件反射で書かれた一面に触れないのはおかしい。どちらにせよ、ドストエフスキーが自ら積極的に政治的陰謀に参加し、数十年後にその深い長い反響として『悪霊』を書いた――そういう強度は求めるべくもない。それでも、『赤頭巾』後半八章の、薫のライバル小林の「史上最大の泣きごと」は確かにスタヴローギンの告白を連想させるが、『洪水』の「縮む男」の粛清場面は殺す側と殺される側の隠微ななれ合いのため、ピョートルがシャートフを殺害する過程はおろか、『死霊』第五章の残酷さにも到底届いていない。何より、あの小林の「泣きごと」では殆ど描写もない桜餅を八個、なぜか無性に食べたくなるのに、大江の小説で食い物がうまそうに描かれた光景が一つでもあるか。
――どんなに理屈をこねようと、こちらに非があるのは明らかだった。昔も今も、気の毒なほど私は幼く無知だった。ではなぜ私は意地をはり、庄司の大江に対する優位を――正確には『赤頭巾ちゃん気をつけて』の大江はおろか、庄司自身の全作品に対する優位を撤回できなかったか。それはこの小説に、いやこの小説の中にだけ、我々を促し、その前方を照らしだす決定的な道しるべ=理念が書きこまれている事実によっていた。その促しは、主人公が「すべてよし!」と言って終る、今も昔も私には理解不能な『洪水』はもちろん、庄司の残りの駄作にも全く存在しないものだった。今さら引用するのもみっともないが、その有名な一節にはこう書かれていた。
たとえばぼくは二年生の時、ぼくが特に好きな下の兄貴に、悪名高い法学部は要するに何をやってるのかときいたことがあるけれど、彼はちょっと考えたあとで、「なんでもそうだが、要するにみんなを幸福にするにはどうしたらいいのかを考えてるんだよ。全員がとは言わないが。」とえらく真面目に答えたものだ。(略)ぼくは急に気が大きくなったというか、たとえばもう法学部がどうの何学部がどうのなんてこと、さらには東大がどうの何大がどうのなんてこともメじゃないような気がしてしまった。そしてちょっと飛躍するけれど、言うなればそれだからこそ、ぼくはかえってほんとうに素直な気持で、東大法学部へ行こうという気になったのだと思う。そしてまたちょっと飛躍するみたいだが、それと根っこのところでは全く同じ理由で、ぼくは今度の大学なんか行かないという決心もしたのだと思うわけなんだ。(三章)
今読み返すと、「兄貴」の言葉使いは曖昧で何も言っていないに等しい。というより、即座に言い返したくなるのだ――人生の目的は静的状態としての「幸福」にはなく、ましてや誰かに一方的にそれを押し付けられる受動性には絶対になく、「みんなを幸福にする」などとは余計なお世話で、お前ら東大生風情が何の資格で他人にちょっかいをかけるか。そもそも、「みんな」とは「人民」なのか「国民」なのか。それは断固たるインターナショナリズムに基き、法の下の万人の平等を追求する清新な大衆的動力の宣言か、それとも(ちょうど「侵略」を「進出」に、最近では「墜落」や「失敗」を「不時着」や「中止」に言いくるめるやり口と同様に)同質的で閉鎖的な共同体の私的利害を「みんなの幸福」と言いくるめ、それが普遍性を持つかのようにみかけをつくろう自己欺瞞の始まりなのか。「兄貴」の答えも薫の受容も、事柄のこの核心を不自然なほど自然に避けている。
――だが、これらは全て「今読み返すと」の話だ。純朴にも、つまり全く愚かにも、かつて私は引用の文言を心から信じていた。前後をすっかり暗唱さえしていた。それは一面、見るに耐えない自己欺瞞しか生みださなかった。卑しい打算と自己顕示欲の表現にすぎない受験勉強が、「みんなの幸福」のために「ガタガタ言うまえにやっつけちゃう」(七章)べき崇高な(?)準備に粉飾されただけだった。この盲信が、一九六八年の反革命からバブルに至る社会状況――誰もが何の屈託もなく、無責任に無節操に私利私欲のために大暴れしたおめでたい増長期に対する、自覚的で反時代的な「批評」だった、などと口が裂けても言わない。だが同時に、それは欺瞞としてさえ以後の生に食いこみ、急所の判断を脅かす低音の問いかけにもなっていた。
「みんなを幸福にするにはどうしたらいいのか」。その言葉が私を焼いた。ふり払ってもふり払っても、それは毎夜幼い耳朶に聴こえてきた。ずっと後で読む世界文学さえも――たとえば『狂人日記』の祈り=「子供を救え…」や、『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』の怒号=「おれの生涯の大望が、それをも耐えさせてくれたんだ。おれはそれによって、幾千万の他の連中に安楽な暮らしをさせてやりたかったんだ」さえも、結局『赤頭巾』のトーンで私は聴いていた。私だけでない。おそらくこの問いが当時全国の、勉強大好きのちびっ子諸君を弱火で、長く焼き続けたと信じる。個体がそれを無視し、いつしか忘却しようとするさなかでさえひそかにその内部にわだかまり、彼らを新たに、真人間に育て直す精神的胚珠だったと信じる。「だからこそ、ぼくはかえってほんとうに素直な気持で、東大法学部へ行こうという気になったのだ」。
あの頃、口先で開拓者を気どる「サッポロ市民」のたかり根性に私は心底疲れていた。それは、『ダブリン市民』が描いた草の根パラリシスと正確に重なるものだった。だがそれ以上に、私は地元の原始林や酪農学園の冷涼を愛してそこを離れたくなかった。砕け散り、とどこおり、弾き合い、いつか白樺の森を透明におおいつくす水晶のただ中で、自分の熱狂を浄化し大切な声を抱きしめていたかった。内地のじめつく腐敗が「サッポロ」のそれ以上に「合わない」ことを体質的に知っていた。むだに疲れる準備をしてまで、未見のゴキブリと同居する意味が一体どこにあるか。あるとすれば、それは――自分と同じくあの問いに焼かれた子供達、それを胚珠として世界中のパラリシスと戦い続ける、未知の新しい友人達と出会うこと以外にありえなかった。そこには、薫の最終決断をそのまま反転させて、独学者たることと大学に行くことを一挙に同時に選ぶ人々が、つまり「大学なんか行かない」というのと「全く同じ理由」で「東大法学部へ行こう」と「決心」した人々がいるはずだった。
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私が言うのは、実在の庄司の言動が伝える俗っぽさや不潔さと別の話だ(引用の省略個所で、作者は「政治思想史の先生」(丸山眞男がモデル)への熱狂を記述しているが、庄司が「丸山眞男」や「林達夫」を個人崇拝するあり方には、ただ権威主義的でまともに異論が言えないというのと違う、「世渡り上手の茶坊主」的小物感を感じる)。実際に「文一(文科一類)」≒「法学部」に来てみると、「みんなの幸福」にこだわる学生など全くの少数で、大多数はゴシップと「自分の幸福」にしか興味のない他愛ない屑だった、という事実とも別の話だ(その一人は、「庄司があの小説で「法学部」とは書いても決して「文一」と書かなかった理由は、自分が「文一」に入れず他類からやっとの思いで「法学部」に転入し学歴を洗浄した、その劣等感のあらわれだ」と得意気に解説していた)。
――我々が自主的に同意し、その実現のために複数の読書会で共同作業を始めた根拠は、あくまで『赤頭巾』の問いの普遍性にあり、作者自身の現実や文一連中の実態ごときが問題でなかった。数がどうあれ、道理がこちらにあることも自然に確信できていた。だがだとしても、我々自身が当時お子さまで、自分の浅薄さや頼りなさに縛られている事実にも変りはなかった。おそらく、それは『赤頭巾』の問いにあれほど熱狂しながら、「経世済民」と呼ぶにもあまりに無規定無内容な、その貧弱さを具体化し条件付ける努力を怠っていたためだった。いつか、思いもかけぬ遠方から強い促しが現れて、我々の増長を打ち砕き容赦なくその不徹底を改変させる。確かにその日が迫っていると思われた。
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たとえば、本郷に進んでまもなく、私は『花田清輝全集』を雑読して奇妙な事実に気付いた。それは、丸山眞男における実践性の欠如にごく冷淡で、かつてそれを「ラスキの冷静な文体のなかに脈うっている「実践」的な情熱は、丸山真男のそれからは薬にしたくともみつからない」(「「実践信仰」からの解放」)と壊滅的に切り捨てた花田がその最晩年、大江でも内向の世代でもなく、まさに『赤頭巾ちゃん気をつけて』に熱中して死んでいたことだった。「庄司薫の小説などは(略)極度に知的な作品であって、(略)この全力投球をサリンジャーの模倣作だなどといって片付けているやつの気がしれない」(「千里の馬は常に有れど」、一九七三年八月)「某月某日、庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』という小説に感心したので、『さよなら快傑黒頭巾』『白鳥の歌なんか聞えない』というかれの小説を、たて続けに読む。カマトトといわばいえ」(「私の近況」、一九七三年一二月)「この芝居[『ものみな歌でおわる』のこと――鎌田]のテーマは、芸術は、芸術運動のなかからうまれるということであって、全篇、庄司薫の小説と同様(略)アンチ・ゲバルトの精神でつらぬかれています」(同上)。
当初、これらは不自然な過褒に思えた。こともあろうに「政治思想史の先生」のパシリやその個人崇拝を賞讃することで、花田はかつての丸山批評まで台無しにしていると感じた。だが長い時間をかけて――これも体質に「合わない」花田全集を長い長い時間をかけて熟読した後で、事態の核心がようやくみえた。それは作品の評価如何のはるか手前に、まさに花田の批評の原理的立場にかかわっていた。たとえば、最晩年の彼はこうも書いた。
わたしには、暴力にたいする暴力のたたかい以外に、それと並行して――あるいはそれの底流として、暴力にたいする非暴力のたたかいが、人眼をかすめて、ずっとたたかい続けられてきたような気がしてならないのだ。という意味は、武家の暴力にたいして基本的に対立していたのは、その当時の農民や工人たちの非暴力ではなかったかということだ」(「画人伝」、『室町小説集』(一九七三年一一月)所収)。
「画人伝」が描く足利義教や忠阿弥の闘争は、たとえ徒手空拳であっても少しも孤高者の闘争でない。ただ暴力を回避するのでなく、それをなかったことにするのでもない、暴力にさらされながらしかも目を背けずにそれらを揚棄する強度にみちた「非暴力のたたかい」――彼らがそれを展開する時、導きの糸たる「徳は孤ならず、必ず隣有り」が現れて、それは彼らを「農民や工人たち」の「非暴力のたたかい」と大衆的に結合させるだろう。
そこには、花田が生涯をかけて歌い続ける「ただ一つの歌」(『復興期の精神』)があった。透明で超長期的な変革への遠望をもたらす「パン・フォーカス」の視線があった。花田が『赤頭巾』に「アンチ・ゲバルトの精神」を見てとる時も、この批評原理のあまりに過剰な投射においてそうしていた。彼の作品評価が客観的に妥当か否かはわからない。薫や小林の実践(?)は、足利義教の無手勝流にも忠阿弥の大衆との結合にも到底及んでいないかもしれない。だがだからこそ、花田清輝は『赤頭巾』のあの問いに、友人達や私がどうしても気付けなかったその空白部分に、決定的で不可逆的な加筆を試みているように思えた――「みんなを幸福にする」実践は、何よりもまず「暴力にたいする非暴力のたたかい」でなければならず、それを「暴力のたたかい」と区別する視線を失えば、「みんなの幸福」の「みんな」自体が腐敗し矮小化し始める、と。過褒にみえたものが根本的な批判に、少くとも強力な条件付けに転化した。花田は確かに、庄司や我々が放棄し遁走した事柄の源泉をあらわにしているように思えた。
――この感じ方が正しかったかどうか、今もわからない。卒業後の私がそれを友人達と共有した記憶もない。だがいずれにせよ、駒場で出会った我々自身がすでに「いい大人」になっていた。もはや「みんなの幸福」の「みんな」が誰で、そのために具体的に「どうすればいいのか」。我々一人一人が、その実践的解答を提示すべき時が来ていた。
ここで、偶然私と同時期に「文一」に入学かつ「法学部」に進学し、当時私以上に圧倒的に庄司薫の刻印を受けていた読者における、「みんなを幸福にする」の道行きを見てみよう。中身がないのを駄文でごまかす社畜や似非学者には一切触れない。今なお正気で、時間をのりこえ素手で物事にぶつかる知性だけを扱う。たとえば、田中繁広は経済産業審議官在任中に、RCEP(地域的な包括的経済連携協定)についてこう述べている。
――改めてこの十数年を振り返られた場合、RCEPは通商政策の歴史でどのように位置づけられますか。
「東アジア地域の各国が、内発的に経済の枠組みを構築した重要な動きと総括できるのではないでしょうか。また、重要なのは、参加国間で電子商取引や知的財産権の保護をはじめ、企業活動の喫緊の課題に対応したWTOを超えるルールを確立した点です。中国は政治的にも経済的にも影響力が大きい国ですが、その中国がRCEPに署名し、法的ルールの中に身を置いた意味は決して小さくありません。WTOが必ずしも本来の機能を十分に果たせていないという現実を考えますと、RCEPが世界の経済秩序の再構築に新たなモメンタムを与える存在になるのではと期待しています。今後は、参加各国の遵守をいかに確保していくかが、重要になってきます」
(「アジア経済統合15年史 そして未来へ」『経済産業省METI Journal』二〇二一年三月三一日)
世間の注意が圧倒的にTPPに傾いていた当時の状況で、田中が意識的に無名の(?)RCEPを重視し、その実現に腐心してきた事実には理由がある。たとえば、RCEPはその「包括性」のゆえに、TPPと違ってカンボジアやラオスやミャンマーのような「後発開発途上国」を決して切り捨てない。またRCEPはその前史において、中国でなく日本が採用した広範な枠組み(CEPEA構想におけるASEAN+6)を明らかに「母体」とするが、それはあくまでASEANが「内発的」に提起し、自ら創設の中心を担い続ける経済提携でなければならない(特に明示的言及はないが、これはかつての大東亜共栄圏構想に対する行政サイドの自己批判にみえる)。さらに、RCEPはいかに「中国主導」と悪罵され叩かれようと、準備段階から参加国のルール順守を強く推進し、中国をも「質の高い」ルール=法の支配の下に従属させる初めての自由貿易協定である、等々。
このインタビューには、かつてあの小説の問いに身を焼かれた経験の消えない手触りがある。田中繁広において「包括性」・「質の高さ」・「互恵性」とは、かつて彼がぼろぼろになるまで読みぬいた中公文庫の延長であり、自称リアリストの言い訳を圧倒する『赤頭巾』のみずみずしい理念の具体化なのである。RCEPはそれ自体では省庁由来の一国家戦略にすぎない。だが他方で、WTOやTPPの限界に対する批評的実践として見る限り、それは薫の「兄貴」の数少ない直系の後輩による、「みんなを幸福にするにはどうしたらいいのか」への時間をかけた解答なのである。ノーパンしゃぶしゃぶからセクハラ、交付金詐取に至る同僚や仲間の無惨な汚泥化=小悪党化のただ中で、田中の仕事は意外に孤独なものだったに違いない。
だが、だからこそ数個の疑問が抑え難くむらがり起こる。すでに右翼や保護主義者達が、「日本の農業が壊れる」だの「中国が国内法よりRCEPのルールを尊重するわけがない」だのと、個別の論点でRCEPを激しく攻撃してきた。だが最も本質的な問題は、この連携協定とそれに伴う関税削減が、それだけでは決して「互恵性」=「みんなの幸福」を生みださない事実にある――具体的には、日本に多大な貿易創造と輸出拡大の機会をもたらす一方、東南アジアの複数の諸国の貿易収支を悪化させ重大な経済損失を招き、かくて域内の持てる国と持たざる国の格差を拡大こそすれ決して解消しない、という事実にある。記憶の限り、国会ではわずかに日本共産党だけが、世界銀行他の国際機関の試算を参照してこの疑問を「証拠付き」で指摘していたが、担当閣僚に「論点ずらし」以外でそれに反論できた形跡がない(では田中ならどう答えるのか。ここでは、他ならぬ田中繁広自身が国民、というよりRCEP域内の全人民を雄弁に説得すべきでなかったのか)。その場合、我々が加担するのは大東亜共栄圏への批評なのか、それとも隠微で洗練されたその完成形態にすぎないか。「みんなの幸福」は、朝鮮特需以来のすり切れたワンパターン=「他国を踏み台にし犠牲にして生みだす所の汚い国益」に結局変質し、「アジアは一つ」もそれを糊塗するイデオロギー的厚化粧に腐敗してしまうのか。
花田が「画人伝」で問い、『赤頭巾』にも強引に読みとった事柄が今こそ出現している。争点は、「みんなを幸福にする」非暴力の実践と、それを放棄し「みんなを幸福にしたことにする」暴力の行使の差異である。新たなシステムや制度設計が本来の理念に背馳しそれを裏切るまさにその時こそ、真に「どうしたらいいのか」が我々をとらえる、という問題である。今日誰かを不幸にする暴力が、正直にそう名乗り出て自らをあらわにするはずがない。RCEPの実態はともかく、それらはつねに自分を非暴力に見せかけ、その偽装を維持することで世間にのさばり横行し始める。だからこそ、この両者の「たたかい」の差異を透明に区別する批評精神が不可欠なのだ。
――私と同時期の『赤頭巾』愛読者の中では、おそらくただ一人、九州合同法律事務所の小林洋二が、絶えずこの差異を問うことで自らの仕事を続けてきた。小林は、たとえば「医療事故調査制度」の制度運用の問題点をこう指摘している。
では、事故が起こった後で、院長が、「その死は予期していました」と言ってしまえば、報告しなくていいことになるのでしょうか。それでは、この制度(「医療事故調査制度」のこと――鎌田)が有名無実化してしまうので、どういう場合であれば、「予期していなかった」(あるいは「予期していた」)といえるのかを、厚生労働省令で定めることにしたわけです。(略)
抽象的、一般的には、医療行為には常に危険が伴います。手術を代表とする侵襲的治療の説明文書には、死亡の可能性まで記載されていることが多いと思われます。
この医療法施行規則第一条の十の二を形式的に読むと、そのような説明さえなされていれば(そのような記載を含む説明文書さえ交付していれば)、一号あるいは二号に該当して、「予期しなかったもの」の範囲から外れることになってしまいそうです。
実は先日、内視鏡治療で消化管を穿孔して汎発性腹膜炎から死亡に至ったという事案で相手方医療機関に調査に赴き、医療事故として扱われていない理由を尋ねたところ、病院側の回答は、「そういった事態もあり得ることとして事前説明を行い、同意を得て治療したものであるから医療事故ではない」というものでした。
しかし、このような解釈は誤りです。
この一号及び二号の解釈については、平成二七年医政発〇五〇八第一号として、「地域における医療及び介護の総合的な確保を推進するための関係法律の整備等に関する法律の一部の施行(医療事故調査制度)について」という通知が発出されており、そこには、「一般的な死亡の可能性についての説明や記録ではなく、当該患者個人の臨床経過を踏まえて、当該死亡又は死産が起こりうることについての説明及び記録であることに留意すること」と明記されています。(略)内視鏡治療に伴う事故の可能性を説明しただけでは、「予期していた」とは言えないのです。
(「報告を要する医療事故とは」『九州合同法律事務所ブログ』、二二年九月七日)
「医療事故調査制度」の目的は、医者を糾弾する代りに「医療事故の原因を究明し、その再発を防止」することである。それが「みんなの幸福」を生みだす「非暴力のたたかい」の表現である。だが小林が指摘するのは、この制度が多くの事例で、かえって「原因究明」を妨害し「再発防止」を困難にしている状況、しかもこの妨害=「暴力」が制度の適切な運用という外観をまとって行われている事実である。
こちらが粗雑にまとめれば、改正医療法では、(「医療事故」の報告自体が排他的に医者側の判断に委ねられていることに加えて)「病院側が事前に予期していた死亡」は「医療事故」から除外され報告する必要がない。そのため医者側の論理では、ある医療行為が一般的な意味で死亡可能性を含む、と手術同意書等に記載さえしておけば、ほぼ全ての「医療事故」が消滅して報告義務もなくなる。おそらく引用の事例も含めて、「暴力」の所在はただ医者個人の卑劣や無責任というより、彼らが立てこもり、患者の具体的状態に目を背けるのを正当化するこの「一般論」のうちにある。
だが、『九州合同法律事務所ブログ』の多数の記事を通読する限り、小林の指摘は個々の法解釈上の不備にとどまるものでない。むしろ、この誤った制度運用を日常的に引き起こす暴力の源泉を切開し、それを克服することこそ真の目的である。小林は、この制度がなお準備段階にある二〇一四年年末の時点で、「日本医療法人協会医療事故調ガイドライン」の論理が、いかに暴力的に医療事故の範囲を縮減してしまうかをこう告発していた。「このガイドラインは次のような喩えを持ち出します。たとえば、二〇〇人の生徒が四日間の修学旅行に行く場合、引率する教員にとっては、のべ八〇〇人・日あれば、忘れ物やけがといった「事故」がいくつか起こることは当然予期している。医療でも同じである。薬剤の取り違えのような間違いは一定の確率で起こることであり、管理者は事故が発生することを予期している。だから、薬剤を取り違えた結果患者が死亡したとしても、それは「予期した」死亡であって、報告・調査の対象に含まれない、というのがこのガイドラインの論理です。(略)人は誰でも間違える、よって間違いは予期されている、したがって間違いを報告したり調査したりする必要はない。」(「医療と法律問題(第一七回)~予期された「医療事故」とは?」同上、二〇一五年一月二二日)
今日の制度運用における一般論の横行は、かつての制度創設時における確率論の横行と連動している。この連動が、患者の特定の症状に対して特定の治療行為が妥当だったか否か。その直視と検討を医者側に回避させている。
おそらく、小林洋二が医療制度改革の現場でさらされたもの――それは、「みんなの幸福」のために新たな制度を創造する「非暴力のたたかい」が始まるまさにその時、それと同程度に、むしろはるかに強力に反動的な「暴力のたたかい」がうごめいて、後者が自分を「非暴力」=「ガイドライン」に見せかけながら、前者を無力化し叩き潰して行く光景だった。多数の弁護士が調査制度発足の時点で惑溺した希望的観測と異なって、小林が今日の痛ましい運用状況を正確に予測できたのもそのためだ。「患者の権利法をつくる会」事務局長としての彼の仕事は、この「権利法」の成果が、自分の存命中には得られないことさえ当然の前提にしているかもしれない。
だが、それは決して「みんなを幸福にする」実践一般を放棄することでない。小林は、「ガイドライン」の確率論的暴力に遡行しそれを熟知していたからこそ、『赤頭巾』の作者や読者が思いも付かなかった理念の修正を行い、今後の「非暴力のたたかい」にめざましい生命を吹きこむことができたのかもしれない。たとえば、先に引いた内視鏡治療検査の事案について、九州合同法律事務所が金銭的解決とは質的に異なる、未聞の和解形式を作り出した事実を報道は伝えている。
三年前、福岡県久留米市にある大学病院で手術を受けた後に死亡した男性の遺族が、「医療ミスがあった」として賠償を求めた裁判で、病院側が和解金の支払いに加え、医療事故として第三者機関に報告するという条件で和解が成立しました。(略)
遺族側の弁護士によりますと、和解には医療事故調査制度に基づき病院側が医療事故として第三者機関に報告することが盛り込まれていて、こうした条件は異例だということです。
(NHK福岡放送局の報道、『九州合同法律事務所ブログ』、二二年九月四日より再引用)
この和解では、それが和解の条件であるがゆえに「医療事故調査制度」が実質的に現状を大きく乗り越える手法で運用されている。そこでは、通常の場合のように報告主体が排他的に病院側であるのでなく、(たとえ裁判の場を借りた遅ればせのものだとしても)あくまで遺族側と病院側が対等な立場で、しかも具体的な事例を話し合い、その上で事故報告如何の決定を行っているからである。
おそらく、ここでは狭義のインフォームド・コンセントをこえる何かが出現しかけている。小林洋二と九州合同法律事務所の人々は、患者や遺族の権利の確立を通して、彼らと医師が対等かつ共同で意思決定を行う新たな医療そのものを創設しつつあるのかもしれない。
――だが私には、それと同時に、小林が『赤頭巾』の問題設定にも重大な改変を加えているように思えた。それはかつて、庄司薫の文体を巧みに自家薬籠とした秀作「冬の日の動物園」を書きながら、ある時それを含む創作ノートを彼が全て焼き捨てた事実を想起させた。小林において、『赤頭巾』の拘束はそれほどに強く、だからこそそれへの異議も本質的になるほかなかった。
改めて問おう――(みんなを幸福にするにはどうしたらいいのか。) だが滑稽にも、この問いの形式には行為主体を示す具体的人称がない。「幸福にする」であれ「どうしたら」であれ、我々はいつも無主語のままで諸考察を続けていた。だがそれは、傲慢かつ無自覚にも、結局その主語をひそかに自分(我々)に擬すことでしかなかった。
だが、仲間とあの和解条件を作り出した時、小林洋二は明確に我々に言うかのようだ――何をどう試みようと、「みんなを幸福にする」主体はあくまで「みんな」自身であり「我々」でありえない、と。この修正において、「幸福にする」の目的格はようやく主格に転換し、もはや「幸福」自体が静的で恩賜的でなく動的で奪取的な性格を帯びていく。たとえそこに無数の試行錯誤が生じようと、それは「法学部」の「先生」や「兄貴」が一方的に「みんな」に強いる受動的幸福よりも、はるかに貴重で実り豊かな公的生活の出現なのだ。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』の問いは以上のように我々を導いた――あるいは、この程度にしか導くことがなかった。いずれにせよ、それは今なお進行中の実践であり、我々は作者個人を離れた依法不依人の精神でそれらを具体化するほかない。
だが最後に告白する。今私の耳元を苦くさいなむのは、本当は全く別の疑問であるようだ――お前は長年「みんなの幸福」を云々してきたが、結局猫の子一匹幸せにできなかったじゃないか! その通りだ。だがあらゆる経験は、それを「悪い例」として再利用するためにも、仮借ない批評と自己批評を必要としている。私はここで、平田篤胤の言う(?)極楽で溺死した猫(庄司薫「脅迫」、『僕が猫語を話せるわけ』所収)として、その一断面を覚え書いたにすぎない。
(七月十二日、岡山表町)
(かまだ・てつや=批評家)
★庄司薫(しょうじ・かおる)=作家。一九三七年生。東京都立日比谷高校卒。高校時代の同級生に、塩野七生、古井由吉、尾高修也がいる。東京大学法学部卒。丸山眞男は恩師にあたる。一九五八年、東京大学在学中に、本名・福田章二(ふくだ・しょうじ)名で応募した「喪失」で中央公論新人賞を受賞。六九年、学生運動を背景に若者の心情を描いた「赤頭巾ちゃん気をつけて」で芥川賞を受賞。その他の著書に『狼なんかこわくない』『ぼくが猫語を話せるわけ』『バクの飼主をめざして』など。
