2026/07/17号 6面

人は犬から何を学ぶのか

人は犬から何を学ぶのか 増田 宏司著 緑 慎也  筆者は最近、高齢者とペットというテーマで取材した。その過程で、生活をともにするペットとして犬の存在感が際立っていると感じた。犬は散歩を毎日要求する。外に出て歩くことで、飼い主に運動習慣ができる。愛犬家同士の付き合いが生まれる。筋力や認知機能の維持、孤立防止にも繫がる。高齢者が犬を飼うことのメリットは計り知れない。  そうした効用に注目する反面、人間の健康に奉仕するための存在として扱うのは犬に申し訳ない気がしていたところ、そんな自分を戒めるようなタイトルの本書に出会った。  タイトルからは犬の賢さを示す研究成果が次々紹介されることが予想されたが、ページをめくっていくと動物行動学の基礎の説明が意外に長い。ローレンツ、ティンバーゲン、生得的解発機構、鍵刺激、動機づけ、至近要因と究極要因、オペラント条件付け。ふむふむ、たしかに勉強になる。獣医師で、動物行動学・行動治療学の専門家である著者の経験を随所に織り交ぜた語り口も理解しやすい。だが「犬について教えます」という餌を前に「待て」とじらされる感覚もないではなかった。  しかしこの寄り道が実は王道だったということがだんだんわかってくる。犬から学ぶためには、まず犬の行動を人間の都合で翻訳しない技術が必要なのだ。尻尾を振る、鼻を舐める、吠える、マーキングするといった行動はどんな仕組みで起きるのか。犬にとって何の役に立つのか。成長のどの段階で現れるのか。進化の中でどう保たれてきたのか。動物行動学に基づいて適切な問いを立て、一つ一つ観察と考察をくり返せば、犬の雑な擬人化や神秘化を避け、ありのままの姿に近づける。  犬を理解するための土台ができると、激しく吠え続ける、嚙みつくなど、犬の問題行動への従来の対処法がいかに非合理であったかがよくわかる。そもそも著者は「犬や猫に問題行動が生じる/ある」という言い方自体に違和感があるという。犬や猫だけに原因があるように響くからだ。行動治療の基本は、動物を叱責や暴力でねじ伏せることではなく、問題行動を起こさせない状況を飼い主と作ることにあるという。  恐怖から吠える犬を叱れば、恐怖はさらに強まるかもしれない。人間に近づかれることを怖がって嚙みつく犬を罰すれば、人間への不信を深めるかもしれない。行動だけを消そうとしても、その行動が生まれる原因を見誤れば、問題は形を変えて残る。著者は、飼い主こそ「科学的トレーニング」を受けるべきだと説く。犬の行動と気持ちを評価し、望ましくない行動を起こさせにくい環境を整え、犬が喜んで選べる行動を増やしていくための、飼い主側の訓練である。  その核心にあるのが「褒める」ことである。ハウスに入ることだけでなく、出ることも楽しく教える。ソファに乗ることだけでなく、降りることも楽しく教える。犬にとって学ぶことがうれしい経験になれば、人間の願いに応じることもまた楽しい行為になる。犬と人間が同じ社会で幸せに暮らすための共通語を、一緒に作っていくのだ。  お預けになっていた犬の具体的な賢さの例は第4章に出てくる。犬は複数の言葉やフレーズを覚え、1000を超える単語を記憶する場合もある。人の注意が自分に向けられると犬は表情を作り、その一つ一つに意味がある。人間のストレスを匂いで感じ取り、慰める。これらはいずれも、犬が人間をただ観察しているのではなく、能動的に関係を結ぼうとしていることを示している。  本書の到達点は少し大胆だ。犬は相手を見て、理解し、距離を測り、仲良くしようとする能力を持ち、飼い主だけでなく、他種動物とも関係を結ぼうとする。著者は、人は犬の「相手との関係に平和をもたらす能力」をこそ学ぶべきだという。  犬は社会保障の補助装置ではない。私たちがまだうまく身につけられずにいる他者と平和に暮らす技術を、1万5000年の間、隣で実践し続けてきた教師なのだ。(みどり・しんや=サイエンスライター)  ★ますだ・こうじ=獣医師・東京農業大学教授・公益社団法人アニマル・ドネーション理事・動物行動学・行動治療学。

書籍

書籍名 人は犬から何を学ぶのか
ISBN13 9784909355423
ISBN10 4909355421