2026/07/10号 3面

『歴史とは何か』の人びと

『歴史とは何か』の人びと 近藤 和彦著 中嶋 毅  本書は、歴史を志す者にとって必読書でありながら読みやすいとはいえない『歴史とは何か』の明解な新訳を世に問うた著者が、同書で言及される歴史家たちを中心にE・H・カーの周囲の人々を論じた知識人群像である。  カー本人を含む二〇名余の登場人物の人となり、彼らの学問的業績とその評価を、著者は時にゴシップ記事的情報も織り交ぜながら、達意の文章で叙述する。その際、対象とした人々についての伝記や様々な辞典類だけでなく、バーミンガム大学所蔵の未公刊の「E・H・カー文書」や関係者へのインタビューも効果的に用いられる。こうして『歴史とは何か』を参照軸としつつ、著者は新たな視点で「集団的列伝」を描き出した。  取り上げられるのは、アクトンに始まりホブズボームに至る、イギリスの著名な歴史家たちにとどまらない。カーの著作を刊行した出版社主のマクミラン兄弟やカーを取り巻く女性たち、さらにはカーがほとんど言及しなかったフランス革命史研究者たち、同時代の日本の歴史学界、没後に書評誌上で起こった論争や新しい歴史学の動向にも、目配りの行き届いた説明が与えられている。  二〇世紀イギリスの知的エリートの世界で通奏低音をなしていたのが、古き良き時代の学寮(コレッジ)で形成された人的ネットワークだった。この「学寮文化」こそ、『歴史とは何か』の主要な背景にもなっていた。そこで形成されたネットワークは、対立やすれ違いを生み出しながらも、歴史家たちに長きにわたる影響を及ぼしてイギリス歴史学を形成してきた。その重要性に読者の目を向けさせるのは、イギリス史に通暁し学寮文化に造詣が深い著者の面目躍如といったところだろう。  それと同時に、二〇世紀イギリスの知的世界の形成において、中東欧からのユダヤ系移民が果たした役割にも光が当てられる。本書に登場するネイミアをはじめ、バーリン、ポパー、ドイチャらは、様々な理由からイギリスを活動の場とした人びとだった。二〇世紀イギリス歴史学の形成には、大陸からの人の移動も大いに寄与したのである。   歴史に関心をもつ読者には、本書は十分に面白い読み物であるが、本書の価値はそれにとどまらない。著者は全体を通して、イギリスを中心とした重厚な西洋史学史と、現代歴史学の主要な論点とを、的確に提示してくれる。もとより集団的列伝という性格上、やや断片的な叙述となるのはやむを得ないが、本書を通読することで読者は、歴史学の来し方と現状を会得することができる。  カーが『ソヴィエト=ロシアの歴史』執筆時に同時並行で進んでいたフランス革命史研究にほとんど関心を示さなかったことについて著者は、「ロシア革命/政治をどう見るかという問題にかかわる」と指摘し、トクヴィルの仕事への言及に着目する。カー自身はロシア革命を、「意図をもって計画され遂行された歴史上最初の大革命」(『ロシア革命の考察』)と評価して研究対象とした。若き同時代人として革命の衝撃を受けた局外のエリート知識人だったカーの初発の関心からは、複合革命の視点に立つフランス革命史研究の動向にはそれほど興味がなかったのかもしれない。  トレヴァ=ローパが偽書「ヒトラーの日記」の真贋を誤った「事件」を紹介した章を読むと、その三〇年ほど前に、はるかに慎重な姿勢ではあったものの、カーが元ソ連外務人民委員リトヴィノフの回想とされる偽書に序文を寄せた「失態」が想起される。いつの時代にあっても、また高名な歴史家といえども、史料批判は大きな課題なのである。  『歴史とは何か』と本書とを併せて読むならば、本書は、名著を読み解くための優れた指南書となる。その時、叙述の背景の知識なしには理解しづらい名著の読解は一層深まるであろう。それだけでなく本書は、『歴史とは何か』の多様な読み方も可能にしてくれる、いざないの書でもある。(なかしま・たけし=東京都立大学名誉教授・ロシア近現代史・在外ロシア史)  ★こんどう・かずひこ=東京大学名誉教授・王立歴史学会フェロー・イギリス近世・近代史・史学史。著書に『民のモラル』『文明の表象 英国』など。一九四七年生。

書籍

書籍名 『歴史とは何か』の人びと
ISBN13 9784000256810
ISBN10 4000256815