2026/01/23号 3面

ソシュールとインド

ソシュールとインド 川村 悠人著 小野 文  ソシュールとインドの関係は久しく囁かれている。とりわけ日本では、ナーガールジュナやディグナーガの思想との親縁性が従来から指摘されてきた。私自身、小林英夫が『一般言語学講義』翻訳の際にシニフィアン/シニフィエを「能記/所記」と言い表したのに興味を持ち、ソシュールが自分でも知らぬうちに仏教思想から影響を受けてはいなかったかと考えたこともあった。ソシュールとインドを繫ぐこと、これは思想史研究者にはロマンをかき立てられる企てなのである。  本書はそのようなロマンに具体的な形を与えていこうとする試みである。とはいえ、構造主義、ソシュール、インド文法学のあいだのミッシング・リンクを繫ぐのは並大抵のことではない。構造主義とソシュールを結びつけるのさえ、言語学史の研究者は現在、相当の注意を要するだろう。これは『講義』がソシュール自身によって書かれたものではないという事実を脇に置くとしても、そうである。1920年代後半にヨーロッパの言語学者たちが構造的手法を取り始めるとき、そこにはボードアン・ド・クルトネやトゥルベツコイの進めていた音声研究が大きく影響している。パトリック・セリオが『構造と全体』(1999)を出してからは、構造主義の「東の源流」は無視できないものとなっている。また本書はフランソワ・ドス著『構造主義の歴史』の英語版(1997)を一つの参照点としているが、この有名な著作は細かい点で正確を期していない。(例えば本書も引いているが、「構造主義」という言葉が1928年の第一回国際言語学者会議でヤコブソンによって初めて用いられたとするのは間違いである)。このようにミッシング・リンクは一つだけではないばかりか、それぞれのリンク自体の強度をも確かめていかねばならない。  ソシュール文献学の視点から見ると、本書はソシュールを翻訳で引用するが、原文の場所は明かされておらず、翻訳用語の統一もされていないという点で不満が残る。結論の最後で引かれている唯一のフランス語文章には写し間違いもある。加えて先行研究の調査は道半ばである。(例えば「口数が少ない」と言われているD'Ottavi 2009はドッターヴィの博士論文の簡略版であり、さらに彼がソシュールとインドの関係について書いた複数の論文は参照されていない)。  しかし本書の著者の専門はインド文法学である。バルトリハリの言語思想やディグナーガの「アポーハ」概念について学ぶところは大きい。第二章におけるソシュールの博論『サンスクリットにおける絶対属格の用法について』の解説は丁寧であり、この著作が一挙に身近なものに感じられた。第四章・第五章で詳述されるパタンジャリやバルトリハリの言語論とソシュールの思想の比較は本書の核となる部分であるが、彼らの関係論的思考、差異の概念、意味価値を求める方法と構造言語学の考え方には類似が認められる。ただ看過できない違いもある。本書の著者のいうようにインド文法学の全体論が「文」を焦点に置いているのだとすれば、文を一つの全体として考える思想はソシュールのうちにはない。これは著者自身も認めて何度か言及していることであるが、ソシュールにおける一つの全体は「言語」(ラング)という抽象的体系であり、「文」の概念は具体的な言葉(パロール)の領域に属しているのである。また歴史記述の観点からすると、本書が中心に扱っているバルトリハリの『文章単語論』をソシュールが読んだ記録がない、という事実がある。こちらに関しても新資料が出てこない限り確実にミッシング・リンクを繫ぐのは難しい。著者自身も結論で述べるように、この繫がりは仮説に留まるのである。  前述したようにソシュール研究には当初から文献学的な側面があり、彼の残した手稿群とそれに纏わる調査資料・解釈の山を前にすると嘆息をつかざるを得ないときもある。しかし著者のようにサンスクリット学を専門とする者からすると、こうした山は見覚えのあるものだろう。インド学からの更なる挑戦を期待し、同時に日本のソシュール学の益々の高まりを願うものである。(おの・あや=慶應義塾大学教授・言語思想史)  ★かわむら・ゆうと=広島大学大学院教授・古代中世インド文法学・思想。著書に『バッティの美文詩研究』など。一九八六年生。

書籍

書籍名 ソシュールとインド
ISBN13 9784409031438
ISBN10 4409031430