座談会=梅澤 亜由美╳大木 志門╳掛野 剛史╳山岸 郁子
<近代文学の豊かさを〈再〉発見する>
梅澤亜由美・大木志門・掛野剛史・山岸郁子編『「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた』(ひつじ書房)刊行を機に
実在の文豪たちをモデルにしたキャラクターが活躍するゲーム「文豪とアルケミスト」(通称「文アル」)。二〇一六年にリリースされ、来年十周年を迎える人気ゲームで、プレイヤーは文豪たちの魂を転生させる能力を持つアルケミスト〝特務司書〟として、文学の世界を守るべく戦う。
アニメや舞台、ノベライズなど、さまざまな形でコンテンツ展開されている「文アル」を近代文学・文化研究者たちが多彩な側面から〝本気〟で論じたのが、梅澤亜由美・大木志門・掛野剛史・山岸郁子編『「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた』(ひつじ書房)。全一四本の論考を収録する本書の刊行を機に、編者の四名にお話しいただいた。(編集部)
山岸 「文豪とアルケミスト」(以下「文アル」)の特徴は、なんと言っても世界観と文豪をベースにしたキャラクターたちの関係性にあります。キャラクターたちの強さはほぼ横並びです。現在まで国内外の文豪をモデルにした九〇人近いキャラクターが実装されているのですが、夏目漱石や尾崎紅葉が飛びぬけて強いといったことはありません。敵を倒しながら、文豪のレベルや衣装のレベルを上げ、育てていくことが目的になります。また、敵の属性との相性があるため、チームを組んで攻略することが必要です。ユーザーが文豪たちの繫がりや情報を深掘りすることに関心を寄せるのは、ゲームの仕掛けによるものです。ストーリーは連鎖し、終わることはありません。
大木 現代のソシャゲは、いわゆるコントローラーの操作テクニックで敵を倒してミッションをクリアするような、私たちファミコン世代が想像する〝ゲーム〟とはつくり方が違っている。ストーリーにたとえばドラクエのような明確な終わりがないと聞くと、未プレイの方は不思議に思うかもしれませんが、終わりがないことがゲームをする持続性を高めたり、また特に「文アル」ではユーザーが自らゲーム外の物語を想像したり、発見する自由が残されています。
梅澤 ユーザーが迷いながらも自分で文学の知識や学びを深め、情報を探し出す。これは研究的な面白さの発見にも繫がりますよね。「文アル」はゲームではあるけれど、遊びながら学べるという、時代に合った学びの形にもなっていると私は思っています。
山岸 キャラクター造形も大変綺麗です。各キャラクターの見た目にはモデルとなった文豪のエピソードが盛り込まれていて、さらに新思潮派や白樺派、プロレタリア派など、派閥によって武器や衣装の細部が変わってくる。けれど、ゲーム内で具体的な説明はされないため、ユーザーはキャラクターたちの関係性を知りたくて、文学史や派閥、師弟関係を調べたり、作品を読んだり、遠方の文学館にも足を運びます。史実を知ることで分かる小ネタが随所に施されているところも、「文アル」のうまい仕掛けです。
掛野 私の中では、「文アル」は「国語便覧」をゲーム化したイメージがあります。便覧では情報として、固有名や作家同士の繫がり、派閥が羅列されているけれど、ゲームではそれがキャラクター同士の関係性として、立体化されている印象を受けます。
山岸 しかも、このゲームは本当にニッチな文豪たちを引っ張ってくる。「国語便覧」にも載っていないような文学者――たとえば先日、実装が予告されたのは広津柳浪です。ちなみに息子の広津和郎は実装済。広津親子は、研究者さえ相当限られているでしょう。
梅澤 「文アル」のキャラクターたちの造形は、各文豪の小ネタを取り入れつつも、完全にフィクションです。一例でいうと宮沢賢治をはじめ、童話に分類されるキャラクターたちは少年のような見た目をしている。便覧に載っている実際の賢治とは似ても似つかないのですが、「文アル」ユーザーは、そこはあまり問題にしない。文学史上の事実と創作上のフィクション……虚と実をうまく線引きしながら、文豪同士のエピソードを手繰り寄せ、文学史の深みにはまっていく人が多い気がします。
大木 服装や装飾などに、その作家らしさや作品の一部が織り込まれているんですよね。情報がコラージュされて、キャラクター造形が出来上がっている。「文アル」では文豪が転生したと言われるけれど、むしろ文豪の特徴的で印象的なエピソードが転生し、ひとつのイメージを形作っていると言った方がしっくりきます。夏目漱石や芥川龍之介、太宰治など話題に事欠かない作家たちの場合は、どのエピソードを選び取っているのか。そこにゲーム制作側のセンスが見えてくる。
ただし、あくまで最大公約数的なイメージに基づいた造形です。特に我々は研究者であるからこそ、近年の研究とは見解が異なる史実がベースになっていたり、情報の偏りに気になることもあります。そうした研究者の視点で「文アル」を論じたのが、本書です。
大木 本書の企画は、実は昨年春の学会の合間の雑談から始まりました。版元の担当編集さんとの雑談の中で、「文アル」に対する学術的関心が高まっているという話になり、そこから学術論集が編めないかと企画が動き始め、今年ようやく形になりました。
そもそも「文アル」がリリースされて、一、二年目くらいのことだったと思います。最近「文アル」というゲームが人気らしい、その影響で近代文学に関心を寄せる人が増えているらしいというのが話題になりました。その「文アル」の人気をいち早くキャッチアップし、学会で特集を組んだのは、この中では掛野さんのいる横光利一文学会だったと思います。どういう背景があったのでしょうか。
掛野 学問的な関心というより、横光利一が登場するゲームがあるようだと研究者たちの間で話題になったことが最初でした。太宰や谷崎潤一郎、芥川であれば、ゲームに登場するのも分かる。でも、横光が出てくるのは予想外だった。それと、チュートリアルでは徳田秋聲が出てくるんですよね。私たち研究者は読んでいるけれど、徳田秋聲や横光の作品は、どう頑張っても一般的に知名度が高いとは言えないでしょう。その横光をコンテンツとしてどういう風に扱っているのか、気になる研究者が数人いたんです。そこから、学会で「文化資源としての文学」特集を組んだり、学会の研究者を中心に二〇一九年には日本近代文学館で企画展「新世紀の横光利一」を実施しました。
山岸 私たちもお世話になっていますが、地元にある文学館が、その文豪について一番研究が蓄積されていることが多いですね。今でこそ、「文アル」と各文学館のタイアップ企画はたくさん開催されていますが、日本近代文学館での企画展は、相当早い時期に行われている。「文アル」と文学館の最初のコラボは二〇一七年の武者小路実篤記念館なので、前から数えた方が早いです。
掛野 実は「新世紀の横光利一」の企画展は、横光学会の研究者が受付なども担当しました。これが非常に良い機会で、「文アル」ユーザーに、横光がどのように受容されているのか、どういう風に読まれているのか実際に知ることができた。展示も一般的なゆとりのある見せ方ではなく、いろんな資料をあえて詰め込んで並べました。すると、来場者は長い間足を止めて熱心に展示物を眺めていて、渋滞が起きる場所もありました。横光利一は今、こんなにも関心を持たれているのかと大変驚きましたね。
また、研究者の関心とゲームを楽しむ人たちの関心には、重なる部分があるという発見もあった。自分たちの研究が一般の人にどう届くのか、その手応えを感じられたと言いますか……。近代文学研究の中でもかなりニッチな人物であろう横光でも、意外なところから興味を持ってもらえる。これに気付けたのは、大きな収穫でした。
大木 一方で、山岸さんが本書で論じられているように、研究者目線での情報とユーザーが望んでいる情報には、乖離もあります。
山岸 繰り返しになってしまいますが、横光と川端、芥川と漱石や、太宰と織田作之助のように、「文アル」は文豪同士の関わりを重視しています。そのためユーザーは、ゲーム内で関係性のある文豪に照準を合わせて、写真や書簡といった情報や知識を探します。
では、生きた時代が違ったり、実際関わりがなかった文豪同士にどのような繫がりを持たせるのか。私は本書で、新美南吉記念館で行なった特別展について論じています。新美南吉は生前、本当にわずかな童話作家としか関わりがなかった作家です。同時代の人とは、ほとんど関係性がないと言っていい。でも、「文アル」ユーザーは、新美南吉が宮沢賢治の著作を読んでいたというような、非常に小さな情報に反応するんです。研究者からしたら、「関わりがなかった」と切り落としてしまうくらい些細な情報を集め、自分で「文アル」の世界観を補っています。
大木 研究者はやはり、作家同士の関係性よりテクストを重視する人が多い。ここにいるメンバーは世代的にも、作家論よりテクスト論に比重を置いて研究してきたと思うので、「文アル」ユーザーが興味を持つ情報には改めて驚きますよね。「文アル」の登場以降、近代文学を専攻する学生たちの関心も、作品から作家へと明らかにシフトしているように思います。
梅澤 そこに関しては本当に、「文アル」の影響が大きいと感じます。私が専門としている私小説は特に、作家と作品を切り離しがたいジャンルです。ただ、世代的にはテクスト論世代なので、ジレンマの中で研究をしてきました。それが今の学生は、作家論の方へ戻ってきていている。しかも卒業論文のテーマとして、織田作之助や久米正雄、山本有三などを取り上げる学生が出てきています。「文アル」の影響がなければ、興味を持つことはなかったのではないか。ここ数年は特に、新しい作家研究の時代に入ってきていると実感することが多いですね。
山岸 最近は、島田清次郎や大泉黒石といった、近代文学研究者でも「そこが来るか!」と驚くような文豪がゲームに実装されています。「文アル」をきっかけに、絶版だった作品集が復刊して読めるようになったケースもある。中でも驚いたのは昨年、松岡譲『法城を護る人々』が法藏館から復刊されたことです。文アルのキャラクターが印刷された帯が巻かれていました。松岡譲を理解する上で重要な作品ですが、簡単には読めない作品でしたからね。他にも新潮社とのブックカバーコラボなど、出版界にも多大な影響を与えています。
梅澤 『法城を護る人々』復刊は驚きのニュースでしたね。ネット上に青空文庫はあるけれど、新しい小説集やアンソロジーが出版され、書店に並ぶからこそ、読み手は増える。里見弴の『君と私 志賀直哉をめぐる作品集』という文庫が二年ほど前に刊行されたのですが、里見弴と志賀直哉の関係性に注目した編集に、コラボではないけれど、「文アル」の影響を感じます。「文アル」ユーザーでなくとも、新たな文庫が出ることで読者は増えるので、研究者としては本当にありがたいです。
大木 近代文学のコンテンツとしての豊かさが再発見された感じはありますね。同じ作品でも、組み合わせや作家同士の関係性によって、また新しい読み方ができる。その幅が「文アル」の登場で、大変広がった気がします。島田清次郎にせよ横光利一にせよ、今までは異色な作家、難解な作家というイメージが強い、もしくは知らないという人が大半だったでしょう。そこが確実に変わってきています。
掛野 横光は今も、世間一般ではそこまで知名度は高くはない。それでも、少し前と比べると格段に読まれるようになったし、関心も高まっている。横光に限らず、作品ではなく作家自身に焦点が当てられる機会が増えたのは、「文アル」の影響でしょう。
大木 本の中で、私はメディアミックスについて論じています。「文アル」はもともとDMM GAMESから配信が開始されたのですが、ここは同じく歴史を題材にした育成ゲーム「刀剣乱舞」の配信元です。先行の「刀剣乱舞」がさまざまな形でメディアミックスさせ成功したこともあり、「文アル」もアニメ、舞台、コンサート、朗読劇など、本当にさまざまな形でコンテンツを展開している。言い換えれば、ゲーム以外にもたくさんの入り口が準備されているということです。
もともと推している声優や舞台俳優がいて、その人が「文アル」のゲームや舞台に出ているから始めたというファンも一定数いる。声優の場合、すでに声優同士の関係性があって、さらにそこにキャラクターの関係性を重ねる人もいます。虚と実を重ね合わせつつ作品を享受するスタンスは、研究者からすると不思議でもあり、新鮮でもありという印象です。
梅澤 メディアミックスでいうと、芳賀祥子さんが本書で朗読CDについて論じられています。「文アル」の声優がそれぞれの文豪の小説を読むという、朗読CDがあるんですね。キャラクターを演じる声優の朗読を聞くことで、作品の文字情報は同じなのに、そこに解釈が生まれる。掛野さんが論じられていた「文アル」ノベライズにも共通することですが、新しい研究のあり方として、確かに今までにあまりなかったような視点が組み込まれています。
山岸 私たちが習ってきた文学史はやはり権威によって選ばれ、作られたものです。ブームを起こした作家であっても、島田清次郎などは文学史に登場しない。ですが、文学史という檻から文豪たちを解き放ったのが「文アル」です。ユーザーが自分たちなりに作家の背景や作品に繫いでいくと、今までとは違う形の文学史が表れるかもしれませんね。
大木 現在の文学研究が、既存の文学史によって、「これが正しい文学である」と規定されすぎている側面は否めません。たとえば久米正雄は芥川とも親交があり、重要な作家であることは間違いがないのに、研究上ではあまり重視されてこなかった。それが「文アル」の人気を受け、また新たな視点から読み直されることで、作品や研究的な価値が変わっていく可能性があります。(つづきは読書人WEBに掲載=紙面のQRコードから)
★うめざわ・あゆみ=大正大学文学部教授・日本近代文学。著書に『増補改訂 私小説の技法――「私」語りの百年史』など。
★おおき・しもん=東海大学文学部教授・日本近現代文学。著書に『徳田秋聲と「文学」』など。
★かけの・たけし=武蔵野大学文学部教授・日本近現代文学。編著に『菊池寛短篇アンソロジー ヒューマンインタレストとしての小説』など。
★やまぎし・いくこ=日本大学経済学部教授・日本近代文学。論文に「『文壇』の力学についての一考察」「文学館、文豪、そしてほんとうの『資源』とは」など。
書籍
| 書籍名 | 「文豪とアルケミスト」を本気で考えてみた |
| ISBN13 | 9784823413117 |
| ISBN10 | 4823413113 |
