2025/09/12号 2面

文化大革命を起こしてはならない

小谷野敦著『文化大革命を起こしてはならない』を読む(長濱一眞)
小谷野 敦著『文化大革命を起こしてはならない 小谷野敦時評集2012-2025』を読む 長濱 一眞  ムーミンのトリビアを「女子に話すとわりあい受け」る云々と本書にあるからでないが、かねて小谷野敦氏の著作には、学術的なものすら、酒や茶の席でこれを口述すればさぞウケるだろうと呻ることたびたびで、この時評集も、調査録の類いに「へー」と思わず声が出る。  さて、氏が天皇制に反対なのは以前から知っていたものの、「戦後生まれの私にしてからが、小学生のころテレビの「皇室アルバム」を観て激しい憧れを抱いたことがある。だからこそ、人は生まれで差別されてはいけないという原理を知ってからは、天皇制廃止論になったのである」との本書の記述にはたと思ったこと――おなじく年少時偶々眼にした同番組の退屈で不愉快な映像に辟易し、一分とこれを見るに耐えなかった者からすれば、この「だからこそ」は皇族への「憧れ」を正しさのため敢然断ち切る決意に留まらず、氏は否定するだろうが、いまも天皇制反対を訴えるにひそかにこれを励ます、かつての決意にあたり抑圧せられた心情――おいたわしい?――まで含意するとでも想定しなければ妙に座りが悪い。とまれ、氏にあって天皇制には時代錯誤の身分制以外に意味はないと見受けられ、またその規定――批判の根拠――は、文学研究において客観性を有すのは書誌学、伝記研究などに限ると述べる際のその客観性とも通ずるとして、むろん天皇制は身分差別だとの主張を否定するには及ばず、客観性の範疇をめぐり争う要もない。だが、それのみで天皇制批判を尽くしうるかは疑わしい。  そも何故天皇制はなお圧倒的な国民的支持を得ているのか。天皇制は身分制との規定にのみ依拠すれば、なるほど、天皇及び皇族には人権がないこと、この事実を「国民は〔…〕考えていない。マスコミが考えさせないようにしているからである」云々と回答せざるを得ないかもしれない。しかし支持の理由はこれでは不明だし、むしろ国民の支持は天皇が特権的身分――基本的人権と引替えの――と承知のうえ、あるいは国民ならぬ象徴だからこそでないか。本書では二〇一六年の天皇生前退位にも触れられるものの、「退位問題について意見をもつと、天皇制を認めることになるから特に言わない」と断わりつつ、生前退位の表明に異を唱える者に対する論難ばかりなのは――退位しても上皇に就くなら「人権がない」状態に変わりないのだからせめて皇室離脱を等々併記すればともかく――、まるで「お気持ち」尊重の観を呈しており、ここに先程の「だからこそ」が差し響いているかに映る。けれども現上皇はじめ皇室は、譲位後の皇室離脱すら露ほども考えず、かつ(出生に拠る)皇室の存続を自明視している以上、同様に一連の成行きを当然と捉え、この特権的身分を改めて支持した国民と共犯関係にあると見做すのが妥当だろう。だとすれば、ここには身分制なる客観的な――概ねだれもが間違っていると知っている――それに留まらない意味/機能――さしあたりダグラス・マッカーサーが認めた「利用価値」とも幾許かは近しい?――が現実に働いていると考えるべきではないか。  ところで、本書では「たとえばフィクション小説を書くときに、自分では許せない人物というのを描けない」との吐露が読まれ、これはその人物の言動や存在に、人称問わず話者として一定程度の説得力を与ええないことの謂いだろうから、氏が噓を嫌うこととかかわるし――話者を担う氏が「許せない人物」に対する理解もしくは共感を超えてリアリティを付与することの「噓」とそれ故の不可能――、のみならず、次のこととも無縁でない。氏はその語り部となるべく柴田勝家の最期を見届けた老婆がいたとの逸話に触れ、「実際、それは誰が見ていたんだということは時おりあるが、映画などで、一人ぼっちになってしまい原野をさまよう人とかがいて、しかし映像があるんだから撮影している人がいるのに、観ている人は特にそれを意識せずに観ている。あれは不思議だ」と書くが、私小説の価値を「事実の重み」に置く氏にあって、この言は「私はそれを見た」と請負う証人たる「私」が語る「事実」にとりわけ深い関心があることを窺わせる。そしてその「私」にも恐らく「許せない人物」がいて、「噓」は許すべからずと想定せられており、然るに斯様な特定の「私」の視点があたかも(?)不在でありながら現に成立する映画を観て「不思議」の感に打たれることとなる。  この「私」の限界――「許せない人物」を書けないのを氏自身「かなりまずい」と評する――を埋め合わすのが客観的な学問なのだろう。あるいは氏において「許せない」基準は既に客観的だと自負せられている? 本書表題の所以を記すまえがきには、「学問というのは、自然科学がそうであるように、客観的な事実を提示するものであって、政治的に正しい議論を導くものではない。〔…〕今後の文学研究は社会正義のためにあるべきだと言う人たちが、ポストモダンやポスコロやクイアといった学問をやっている。それらは学問ではない、という声があがっても、彼らはそれを力で押さえつける。つまり文化大革命が世界的に起ころうとしているのだ」と書かれている。本書にはしかしこの引用末尾あたりに関する具体的な例示や検証がないので、是非も真偽も、そも座りが悪い「つまり」に続く「文化大革命」が比喩でなく「客観的な事実」なのかも、判断する術をここからは得られないのだが、察するに天皇制批判は「政治的に正しい議論」を超えた客観性を持つし「文化大革命」とは無縁と見做されているらしい。確かに基本的人権は政治の問題でないとは、反差別を唱える――「ポスコロやクイア」と親和的と思しいが、そのすべてでない――者がまま喧伝する命題ではある。本書章題にあるとおり「議論」が必要だ。だが、それは「客観的な事実」の確認の体裁をもはや保てないほどに、幾ら「私」が嫌いでも、政治にまみれることにほかならない。(ながはま・かずま・批評家)  ★こやの・あつし=作家・比較文学者。『聖母のいない国』でサントリー学芸賞、「母子寮前」「ヌエのいた家」で芥川賞候補に。著書に『近松秋江伝』『馬琴綺伝』『川端康成伝』『悲望』『レビュー大全』など。一九六二年生。

書籍

書籍名 文化大革命を起こしてはならない
ISBN13 9784924671959
ISBN10 4924671959