本屋のパンセ
奈良 敏行著・三砂 慶明編
星野 文月
著者の奈良敏行さんは、鳥取県で定有堂書店を創業した。二〇二三年に閉店するまでの四十三年間、本を売り、ミニコミ誌を作り、読書会を開き続けた、「本屋」として生きてきた人である。
本書の大半は、創業時から定有堂書店が定期的に発行しているミニコミ誌『音信不通 本のビオトープ』に掲載されているエッセイから成り、著者が日々本を読み、人と交流を重ねながら思索したその軌跡がまとめられている。
本屋は小さなメディアであり、その本屋の中で奈良さんはミニコミ誌を作り続けてきた。本書を読み進めていると、気ままな散歩をしているように心地がよく、なんだか肩の力がふわりと抜けていくのを感じる。金言が散りばめられているのに、言葉に飾り気がないので、すっと心に馴染んでくる。「身の丈」で生きることを大切にしてきた著者は、「伝えよう」と思って余計な力を入れることがない。
小さな声を、小さなまま形にしようとする「ミニコミ魂」は、大きな声への抵抗であり、人として生きる力を手放さないひとつのあり方を、私たちに示してくれているように思えた。
著者は、「『本を読む』という行為は自分を人から遠ざける営みだった」と綴る。孤独に向かう読書よりも、本を人に売り、手渡していくことが何よりも楽しいと感じる「本屋的人間」である。どんどん加速する時代の中で、定有堂書店という「庭」の土壌を耕しながら、本を通じて人と出会い、思索を続ける。定有堂書店が「本屋が詣でる本屋」であったのは、そんな著者の哲学が息づく本棚に出逢うことで、自らを導く光をそこに見たからではないだろうか。
本書の編者である三砂慶明さんは、これまでに「読書」や「読書会」という体験に光を当て、その可能性を丁寧にひらいてきた人だ。定有堂書店がその暖簾を静かに下したあと、奈良さんの言葉を本というかたちに編もうと動いたのは、その営みが単なる「記録」ではなく「受け継がれるべき物語」として、この世界に必要だと感じたからなのだろう。
小さな声で語られる奈良さんの哲学を、大きなものにするのではなく、そっと掬い上げながら、読者の側にたくさんの入口をつくっているのが本書の特徴である。
私は、定有堂書店に「間に合わなかった」けれど、本書のおかげでそこにあった哲学に触れることができた。それはしかるべきタイミングで、この本と出会うことができたからだと思う。
本書を読み終えたとき、私のなかに「世界への信頼」という言葉が浮かんだ。本をつくるのも、届けるのも、誰かの想いがそこにある。自分という小さな人生をすすめながら、本と出会う。その瞬間、時空を超えて、本の向こうにいる人と出会うことができる。
本はさまざまな出会いを連れてくる。奈良さんは、本屋で読書会を三十年以上続けてきた。本をきっかけに人を集め、そこには温もりがうまれた。読書会といっても、そこに正解を求めるような空気はなかったという。その月に課題になった本について、ただ感じたことをぽつりと話す。そこで、それぞれの見えている景色が交差する。何か結論のようなものは出なくてもよく、参加者はおそらく読書会に参加すること自体が楽しみで、目的になっていたのだろうと思う。一冊の本を囲んだ小さな場が、日々の心に静かな光を灯し続けていたのだ。その光景を著者は「焚き火に似ている」と例えた。
奈良さんは、本屋という看板を下ろしたあとも、「本屋的人間」であり続けている。それはつまり、本を手渡し、人と出会い、小さな場を耕すように生きる姿勢のことだ。
本書の中で何度か「目的が後から現れる」という言葉が出てくる。成果や結果ではなく、「行為そのもの」を信じて繰り返すこと。そこから生まれる「あそび」や「ゆとり」こそが、私たちの暮らしにささやかな光をともすのかもしれない。
『本屋のパンセ』のカバーを外してみると、装丁の雰囲気とはがらっと変わり、在りし日の定有堂のカバーがあらわれる。この場所は、今はもうないのだと知る。だけど、そこで生まれた灯火は、本屋を閉じたあとも、静かに、でもたしかに燃え続けていることがわかる。(ほしの・ふづき=作家・文筆家)
★なら・としゆき=一九八〇年鳥取にて、定有堂書店を開業。著書に『町の本屋という物語』など。一九四八年生。
★みさご・よしあき=「読書室」主宰。著書に『千年の読書』など。一九八二年生。
書籍
書籍名 | 本屋のパンセ |
ISBN13 | 9784867930731 |
ISBN10 | 4867930733 |