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小宮正安
科学技術や科学は、文明の利便化や快適化にとって決定的な因子であり、人類史は科学や科学技術によって「良き」方向へ「進歩」してきた。しかし、それとは別の流れが、21世紀に入って決定的に明らかになってきている。科学技術や科学がもたらす長期的「負荷」・壊滅性「遺産」である。気候変動の不気味さは、更新される「暑い夏」「多い雨」に明らかであるし、原子力の後始末の難航性は、福島第一原子力発電所事故炉の持続的処理に如実である。
2年ぶりに、私たちにとって必見である原子力資料情報室編『原子力市民年鑑2025』(緑風出版)が出版された。そこで示されているデータ類は、原子力にどのような「負荷」があり、今後あり得る「壊滅」を見極める重要な資料となる。巻頭論文「自然・エネルギー・原子力」(山口幸夫)で示されたエピソードも示唆的だ。1970年代まで、物理学者たち、仁科芳雄、坂田昌一、伏見康治などは「核のごみ」に全くの「無知」であった。このことは、長期的「負荷」・壊滅性「遺産」の全体像が今でも見えていない可能性を示唆している。
原子力委員会編『原子力白書 令和6年度版』(シンソー印刷)は、第一章の56頁を「東京電力福島第一原子力発電所事故の反省・教訓と福島の復興・再生の取組」に充てている。政府の姿勢と方向性を知ることは可能だが、長期的「負荷」・壊滅性「遺産」への視座は見当たらない。興味深いのは、核融合への取り組みを第八章でそれなりに示し、核融合の「フュージョン」への言い換えを進めていることだ。この言い換えは、現在、「総合科学技術・イノベーション会議」の議長である極右政治家が始めたことであり、今後の科学技術政策を注視する必要性を示している。
「フュージョン=核融合」に関しては、アーサー・タレル『「夢のエネルギー」 核融合の最終解答』(横山達也監修、田沢恭子訳、早川書房)や岡野邦彦『核融合炉入門』(コロナ社)などが出版された。「夢」を語っているが、核融合の持続的熱源としての実験的確立は早くとも25年後らしい。装置は巨大化し、どうやって継続的にタービンを回すかについては、概念図さえほぼない。(後者の「図4.1」参照)この新エネルギーについては見えていない部分を可視化する分析が待たれる。
今世紀に入ってから、特にコロナ状況以降、知的ものの凋落やそこへの攻撃は、より深まり強まってきた。今年の9月5日にスタートした「世界で競い成長する大学経営のあり方に関する研究会」は現時点を「「科学技術とビジネスの近接化」の時代」と名づけた。そこにある学術性の欠落と知的退廃は、いまの「無知」時代を象徴している。そうした時こそ、科学技術や知的なものとどうかかわるべきかを批判的に考えることが必要となろう。
その際参考となる書籍が今年は数多く出版された。一部を見ておこう。鶴田想人・塚原東吾編著『無知学への招待 〈知らないこと〉を問い直す』(明石書店)には、「知らないこと」を根本から問い直す重要な諸論考が編まれている。カテライ アメリア・鹿野祐介・標葉隆馬編著『ELSI入門 先端科学技術と社会の諸相』(丸善出版)は、「科学技術をめぐる制度や政策で必要不可欠な条件」を把握する上で重要な考え方を提示する。
なかでも村上宏昭編著『生体管理の近代史 個人識別技術と身体の情報化』(明石書店)は、特に注目に値する。モニタリングされ情報化された身体とその知を17世紀から今日まで、帝国と植民地そして現代国家で大胆にかつ詳細にたどってゆく。同時代の科学や科学技術による「可述的身体」から「可視的身体」を経て「可読的身体」へという生体把握の遷移過程に光が当てられている。ここでの「可読」性のわかりやすい例は「体温計」による生体把握だ。そこにみられるように人間身体の一元的情報化が私たちを覆いつくしている。瀬戸口明久が昨年『災害の環境史 科学技術社会とコロナ禍』(ナカニシヤ出版)で示した科学技術による社会と環境の創出についての新たな視点と、この生体認証による身体性の構築はいかに交差するのか。新たな包括的批判的ヴィジョンの構築が待たれる。(さいとう・ひかる=京都精華大学共通教員・生物学史・科学史)
