滅びゆく惑星で 第5回
増田俊也
執筆仕事に行き詰まると、何かをして気持ちを切り替えなければならない。トレーニングジムへ行って汗を流す。普段は抑えている高カロリー食を採る。三十分ほど仮眠する。それぞれに効くときと効かないときがある。何をしてもリセットできないときは、思い切って映画を観る。
これまで何度も観た一本から選ぶのでストーリーはわかっている。だからストーリーを追うわけではない。滋味を味わうのである。音楽を聴くのに近い感覚かもしれない。同じ曲を何度も聴くのは、旋律の先を知りたいからではない。その音の組み立てに身を浸したいからだ。映画も、何度目かを過ぎたあたりからそういう聴き方ができるようになる。
私にとってリセット力が強い作品は何十本かある。だが最悪に脳が疲れたときに観るのは決まっている。『羊たちの沈黙』だ。レクター博士である。
私たちは絶対的な強さに憧れる。絶対的な頭脳に憧れる。だが世の中にそうそう絶対の人はいない。実在の人物には必ず傷がある。
しかしレクターだけは完璧だ。
知性は超絶しており、礼節は崩れず、独房に拘束されてなおこちらが見透かされる。クラリスとの最初の対面で、彼は彼女の靴の安物さから出自を当て、香水の銘柄から心理を読む。鉄格子越しに、二言三言で人間を解体してしまう。
さらには文学を解し、絵画を描き、クラシック音楽を愛す。彼の語る言葉には教養が血肉になっている人間特有の、あの澱みのなさがある。
ふつう、これだけ突き抜けた人物を造形しようとすれば、必ずどこかが破綻する。強すぎる主人公は鼻につき、頭が良すぎる主人公は嫌味になる。ところがレクターには、その破綻がない。彼が殺人鬼であるということが、最大の均衡装置として働いているからだ。彼を「いい人」にしなかったところに、ハリスという作家の冷徹がある。完璧な知性を完璧なまま立たせるには、その対価として彼を社会の外側に置くしかなかった。檻の中にいるからこそ、彼の知性は減算されずに保たれている。
脳が限界まで疲れた夜、私は独房や檻に入れられたレクター博士のシーンを観る。何があってもこの男だけは揺らがない、と確信できる人物が画面の中にいる、そのことに私はリセットされている。物語の救いではなく、造形の完璧さに救われている。
書き終えて画面を閉じると、自分の原稿の不完全さがかえって愛おしく思えてくる。私たちの仕事は、レクターを描くことではなく、レクターを描けない側の人間を描くことなのだから。(ますだ・としなり=小説家)
