2026/03/06号 5面

「空間的な芸術としての映画」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)427(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 427 空間的な芸術としての映画  JD 映画は感性によって見ることが大事であり、知性で見るものではありません。例えば編集を考えた際に、場合によっては、対話が行われている空間の全体を捉えたカットを挟むこともできます。そうすることで、場の全体が把握しやすくなる。そして必要があれば、――西部劇などで行われるように――対話を直接的なアクションへと繫げることができる。アクションを起こすためには、空間を示しておく必要があるからです。それとは反対に、空間全体をあえて示さないことも可能です。つまり、役者への演技指導によって、眼や手の動きなどといったちょっとした細部を通じて、空間の内部を想像させることもできます。  HK 映画の編集においては、映像を繫ぎ合わせるだけではなく、空間についても考慮する必要があるということでしょうか。  JD 部分的には、そのようにも言えます。しかし、空間だけが全てではない。空間の内部を一切感じさせずとも、偉大な映画はたくさんあります。例えば、ドライヤーの映画は必ずしも空間的ではありません。彼の映画は、空間的であるというよりも、神秘的である。映画における空間は……一つの要素であり……つまり人間の知覚を形作る一要素であるということです。重要なのは、その空間において、その空間を通じて、何を感じさせるかということです。映画は――いずれにせよ――私たちの生の延長上にあります。私たちが生きる世界の延長にあるということです。その世界は、平面的な二次元でもなければ、四次元、五次元、六次元といったものでもありません。私たちの生きる世界は、立体的であり連続的な三次元空間です。映画は、そうした世界をフィルムという平面に転写したもので成り立っています。フィルムに記録されているのは、どれだけ立体的に見えても、実際にはレンズという物体を通過し歪められた世界です。フィルム上に再現された風景は、遠近法や錯視などの視覚効果によって、脳が現実への類似を知覚するだけに過ぎません。しかし、その風景は――絵画と比べると――現実と瓜二つであり、あたかも空間が広がっているように感じられます。その傾向は、写真よりも、映画において際立ちます。つまり、映画はカメラの動きなどで、空間をあらゆる方向に探求することができるのです。さらには、定点固定のカメラにおいても、撮影される風景のあらゆる細かな動き――ちょっとした枝の揺れや空気の流れなど――が記録されることで、空間性を絶対的に記録することになります。それは、他の芸術には不可能なことです。その意味においても映画は空間的な芸術なのです。  映画には、現実の空間性と非常に近しいものがあります。しかし同時に、その発見は「カメラという眼」を通じて行われます。つまり人間の眼には捉えられないものを記録し、上映することができるということです。たとえば極小の世界に生きる細菌の動きを撮影することもできるし、一方では、鳥の眼のように世界を俯瞰的に眺めることもできます。カメラの技術の発展や映画作家の演出法によって、視覚の可能性は限りなく広がってきているのです。それ故、映画の空間は人間の眼の延長にあるだけではなく、映画芸術固有の空間を生み出す可能性も持っているのです。映画が、視覚的であり、私たちに幻想を与えやすい表現であるというのは事実です。そうした傾向は、絵画、小説、演劇などよりも圧倒的に強い。  HK だからこそ、映画や写真は、プロパガンダのような言説を作ることに、今日でも大きく寄与しているわけですね。  JD はい。しかし、映画が本来持つ可能性は、単なる現実空間の延長に関わるものではありません。映画が芸術となり得るのは、映画固有の表現に基づくことができるからです。映画が、単なる娯楽や見せ物ではなく芸術となったのは、映画固有の表現の発見と結びついています。映画が真に芸術となったのは、グリフィス以降のことです。彼が発見したのが、まさしくモンタージュなのです。〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)  ※写真は1960年代中頃撮影。前列左から二人目にジャン=ピエール・レオ。その右奥中央にドゥーシェ。