2026/06/05号 6面

80年代90年代、新しい日本映画の始まりと終わり──その裏側

80年代90年代、新しい日本映画の始まりと終わり──その裏側 山田 耕大・高鳥 都著 寺脇 研  たしかに1977年という年は、日本映画の「第二の危機」と言いたくなる時期だった。  第一の危機は71年。50年代の全盛期を謳歌した邦画5社のうち大映が倒産し、日活は辛うじてロマンポルノ路線に活路を求めた。残る3社も軒並み規模縮小を余儀なくされ、日本映画そのものの存続が危ないとまで言われたほどである。  その後、東映が『仁義なき戦い』(73年)をはじめとする実録やくざ映画路線で持ち直し、『犬神家の一族』(76年)で華々しく新規参入した角川映画が明るい兆しを見せたものの、各社の撮影所システム、特に新規人材養成機能が崩壊した結果、77年には商業映画の新人監督デビューが皆無という前代未聞の事態に至ったのだ。  前年にATGの『青春の殺人者』(76年)で46年生まれの30歳・長谷川和彦が、いきなりキネマ旬報ベストワンを獲得する派手な登場をしたものの、それに続くわたしたちの世代が監督になれるのはいつの日か……。75年大学卒業と同時に映画評論家になっていたわたしは、キネマ旬報の「77年度日本映画総決算」で、その不安を率直に披瀝している。  わたしより一つ若い著者・山田耕大は、就職浪人までして日活の助監督試験を2度も受けた経歴を持つ人だから、映画界入りを目指す若者として第一、第二の危機を切実に感じていたはずだ。それでも志を貫徹し、78年春、日活へ入社して映画人生をスタートさせる。  そして他ならぬこの年が、「80年代90年代、新しい日本映画の始まり」の動き出した節目なのだった。『オレンジロード急行』で52年生まれ25歳の大森一樹、『オリオンの殺意より 情事の方程式』で50年生まれ27歳の根岸吉太郎がデビューし、57年生まれ21歳の石井聰亙が19歳大学生のとき監督した自主映画『高校大パニック』が日活、澤田幸広監督でリメイクとなり、彼も「監督」としてクレジットされた。  この年を皮切りに、80年相米慎二、池田敏春、81年井筒和幸、森田芳光、82年高橋伴明、84年金子修介、85年黒沢清、86年滝田洋二郎といった新世代が続々出現する。彼らは大手映画会社の撮影所育ちではなく、自主映画、ピンク映画、ロマンポルノといった新しい出自を持っていた。  少し遅れて、こうした新しい才能たちの活動の場を作る動きが次々と出てくる。81年に岡田裕ら日活のプロデューサーたちが独立したNCP、82年に長谷川和彦ら8人の若手監督たちが製作にも携わるディレクターズ・カンパニー、84年に荒井晴彦ら若手脚本家中心のメリエスなどが設立され、89年にはそれらが協働するアルゴプロジェクトが成立した。  ……と、こうした当時の映画界の状況を頭に置いておけば、本書のどこを読んでも面白いはずだ。なにしろ、語る山田はロマンポルノの企画者を振り出しに、プロデューサー、メリエス社長、現在は脚本家として50年近く日本映画に携わってきた人なのである。その間に活躍した映画人のほとんど皆と付き合い、仕事を共にしたり個人的交際を重ねたりしている。聞き手を務める高鳥都がまた、当時子どもだったはずの80~90年代の映画知識に富んでいるから、山田の語りは縦横無尽、裏話、秘話も含め絶好調だ。山田とも、俎上に載る映画人たちの多くとも旧知のわたしでさえ初めて聞くネタが満載であり、書名にも章題にも末尾に付く「その裏側」の四文字に偽りはない。  改めて感じるのは、「新しい日本映画」の「始まり」から「終わり」までの20年間、帯の惹句にいう「新人監督が次々とデビューし、ミニシアターが立て続けに誕生した。そして〝自由な映画〟が数多く公開された、あの時代」は、大きな転換期だったということだ。この時代を経てこそ、草創期から120年以上の歴史を有する現在も日本映画は健在であり、新しい作品や人才を世に出し続けているのである。(てらわき・けん=評論家)  ★やまだ・こうた=脚本家。東京大学卒業後、にっかつ企画部にて多数のロマンポルノ作品のプロデュースを行い、八五年に企画製作会社メリエスを設立。にっかつ時代から『家族ゲーム』など数多くの映画をヒットさせる。  ★たかとり・みやこ=ライター。著書に『京都撮影所案内』『必殺シリーズ秘史』など。

書籍