旧ソ連圏の分割紛争
松里 公孝著
渋谷 謙次郎
本書は旧ソ連諸国における分離紛争の研究に現地調査を含めて長年携わってきた著者による渾身の作である。分離政体は、親国はもとより国際社会から承認が得られなければ、しばしば非承認国家とも言われ、このような地域が旧ソ連に複数発生した。本書はあくまでも中立的なスタンスで「分離」(セセッション)を、その原因と対処を含めて学術研究の対象としている。また、本書は、現下のメディアや論壇で主調となっているウクライナを潜在的に応援しロシアを糾弾するといったトーンとは一線を画す議論であるし、こうした議論について「親露」とか「親ウ」といったレッテル貼りは厳に慎まなければならず、本書がそのいずれでもないことは言うまでもない。
本書の構成は、第1章・第2章が分離紛争頻発の背景と紛争の管理についての基礎理論をなし、親国家、分離政体、パトロン国家という三項をアクターとして、先行の仮説の検討に入り、紛争の管理や行方、その成否には様々なパターンがあることが了解でき、これらの章だけでも読む価値がある。分離紛争の抑止のためには一般的に「国際法の遵守」が叫ばれるが、本書はソ連末期の分離紛争頻発の主な原因が、国際法理の「保持占有」uti possidetis jurisの原則の排他的・教条的な適用(この場合、旧ソ連構成共和国の境界線を国境として承認する原則)、しかも拙速なソ連解体にあったことを論じる。
第3章以降では、南オセチアとアブハジア(親国グルジア)、ドンバス(親国ウクライナ)、カラバフ(親国アゼルバイジャン)、ガガウズ・沿ドニエストル(親国モルドヴァ)の事例研究に進む。以下、紙幅の都合からそれら全てに触れることはできないが、1989年以降の南オセチア、沿ドニエストルの分離紛争では、ソ連解体後、停戦のために、ロシアのエリツィン政権、紛争当事者(分離政体、上位共和国)のダゴムィス合意による「合同統制委員会方式」が南オセチア紛争で生まれ、沿ドニエストルにも移植された(非武装地帯の確定と監視、委員会に属する合同平和維持軍の展開)。紛争当事者に関与責任を負わせることにより、停戦という本来の目的は迅速に達成でき、治安維持にも貢献したと評価されている。
他方、そうした合同統制委員会方式がうまくいかなかったのが、自力で領土を解放しようとしたアブハジア(グルジア内の自治共和国だった)であり、二度にわたる停戦条約もその都度破られた。後のサアカシヴィリ政権の下ではland-for-peace方式が浮上し(一部の土地を親国に差し出すことで事実上の独立を承認してもらう)、ロシア指導部がグルジアの領土保全に協力し、南オセチアとアブハジア東南部をグルジアに「戻す」代わりに、アブハジア北西部の親露的アブハジア政権をバッファー・ゾーンとして事実上容認してもらうという交渉があったようだが、それはグルジアが南オセチアを奪回してもロシアは干渉しないだろうと誤ったメッセージをグルジアに送ってしまったのではないかと著者はみる。現に2008年9月に第二次南オセチア戦争が勃発し、ロシアはアブハジアと南オセチアとグルジアとの国家連合を望みつつも、両政体の指導者がそれを拒否したため「国家承認」(ロシアの保護国化)に至った(著者は国際政治における悪手とみる)。しかし、国際社会が認めない中で、これは「保護者」にとっても養われる側にとっても、維持コストは高くつく。
第6章「2010年代半ばからの分離紛争激化の原因」では、「激化」の背景として親国家の経済的貧困化を第一に挙げている。分離政体の住民は民族的大義などに凝り固まっているわけではなく、例えばロシアに帰属変えした場合、年金額が何倍になるかといった現実的な問題を気にする(EUに入っても年金は倍にならない)。加えて、著者は、ウクライナやグルジア、モルドヴァの政変で権力についた政治家すなわち「NGO活動家その他の素人政治家」の無策を批判する(何よりもそれら諸国の一人あたりのGDPはロシア、ベラルーシといった「権威主義」国と比べて落ち込みが激しい)。また著者は紛争の背景に「地政学的対立」があるという見地を批判するが、正確にいうと、権力の座についた政治家が無策を糊塗するために地政学的言説を弄し分断を煽ってしまうことが、むしろ分離紛争を悪化させるということである(地政学的対立は紛争「原因」ではなく、権力闘争の「結果」として出てきた言説であり、しかもそれが物神化され、分断要因のごとく表象されてしまうということか)。
現下の露ウ戦争に関して、元々プーチン政権はクリミア併合のシナリオをドンバスで繰り返す気はなく、そもそも2014年マイダン革命後のポロシェンコ政権と交渉して二回のミンスク合意を締結した。しかし本書前半で扱ったような1990年代の分離紛争でなされた非武装地帯の設定や、合同統制委員会、平和維持軍のような停戦機構を欠いており、実効性に乏しかった。そのツケをドンバスの住民が払わされたことの責めはプーチンとポロシェンコが均等に負うべきと著者はいう。ポロシェンコは改憲とドンバス地方選挙実施でドンバスをウクライナに戻すことが可能であるかのような政策を提示し失敗し、2018年には事実上、ミンスク合意から離脱していた。続くゼレンスキー政権は脱ミンスクの態度を強めていくが代替案を提示できず、ドンバス「再征服」に傾いた。プーチン政権は「ミンスク合意を守れ」を繰り返すばかりで、非武装地帯の設定や平和維持軍などの標準的な停戦機構を追求せず、ドンバスの「ジェノサイド」を理由に清算に乗り出した(全面戦争)。
著者の認識は、非承認国家存続が、もはや当該住民にもパトロン国家にも受容可能なオプションでなくなった現在、分離紛争は「親国家による再征服」(アゼルバイジャンによるカラバフ征服)か「パトロン国家による親国家の破壊」(露ウ戦争)のいずれかによって解決されるしかなくなったのではないか、というものである(ただしモルドヴァでは非戦志向が強い)。むろん、分離紛争の解決にはそれしかないという意味ではなくて、背景には、著者が分析したような2010年代の親国家、パトロン国家の政治、経済状況の変容がある。
本書は、旧ソ連の分離紛争はもとより種々の民族紛争をみる際に多角的な視点を供与する必読文献と評することができる。最近、ソ連政治の重鎮、塩川伸明がソ連解体をかつての歴史の終焉どころか「現代史の起点」と設定したように、ますますカオス度を増している「現代」は、ソ連解体によって途方もないツケを支払わされているようだ。ただし、「ソ連解体は20世紀最大の地政学的悲劇」というプーチン言説は額面通り受け取るよりは、「地政学的」という部分をカッコに入れて考えたほうがよさそうだ。(しぶや・けんじろう=早稲田大学・ロシア法)
★まつざと・きみたか=上海外国語大学特聘教授・法学博士。東京大学大学院博士課程単位取得退学。著書に『ウクライナ動乱』など。一九六〇年生。
書籍
| 書籍名 | 旧ソ連圏の分割紛争 |
| ISBN13 | 9784815812508 |
| ISBN10 | 4815812500 |
