果てしない余生
羅 新著
安永 知晃
著者羅新氏は魏晋南北朝史を専門とし、これまでに『中古北族名号研究』(北京大学出版社、二〇〇九年)・『黑氈上的北魏皇帝』(海豚出版社、二〇一四年)など多くの研究成果がある。その著者が、北魏王朝の後宮で宮女として生きた一人の女性にスポットを当て、彼女の身の回りで起きた出来事を中心に、一般の読者向けに北魏史を叙述したのが原書『漫长的余生』であり、本書はその日本語訳である。
西晋滅亡後、混乱の華北を統一したのが鮮卑拓跋氏の建てた北魏である。彼らは元来遊牧民族(胡)であり、被支配者の漢族は農耕社会を築いてきたため、両者は自ずと文化・価値観が異なる。北魏における胡漢の衝突・融合は後の隋唐の制度や文化を形成していくことになる。
原書は二〇二二年七月に出版されると日中の研究者から好評を得たが、その特徴は墓誌(墓中に納められた、死者の事績を記したもの)を多用した点と、後宮女性を中心に取り上げた点にある。
西晋時代から見られる墓誌は、当初は定型化していなかったが、いわゆる漢化政策を進めた北魏孝文帝の時代から変化があらわれる。本書でも紹介される馮熙(文明馮太后の兄)の墓誌のように長文で死者の姓名・本籍地・祖先・官職・事績などが記される序文と、韻を踏んだ美文で功徳が述べられる銘文とから成る形式のものが多く制作されるようになったのである。本書の「主人公」である王鐘児(法名は慈慶)の墓誌も同じ構成をしており、その記載の説明をするように本書は進んでいく。ただし、墓誌には何でも正直に記されたわけではない。馮熙墓誌が孝文帝の作といわれるように、当時の墓誌の制作には皇帝が積極的に関与していた節がある。必然的に、後宮の宮女として生きた王鐘児の周辺での出来事には言明が許されないものも多い。そうした後宮の闇の部分を、著者は同時代性を重視して王鐘児の視点も交えながら丁寧に他の墓誌などの史料を載せて、推測ではあるが高い可能性を提示している。墓誌には『魏書』『北史』といった伝世文献には記されていない情報が豊富にあり、本書では随所でそれらをふんだんに活用した考察がなされている。『新出魏晋南北朝墓志疏証』(中華書局、初版二〇〇五年、修訂版二〇一六年)を編集した著者ならではの芸当である。
「主人公」王鐘児は南朝宋の官僚の家の出身だが、戦争により北魏に捕らえられ平城に送られて宮女となった。その彼女が北魏の宣武帝や孝明帝を育てることになった理由は、北魏特有の「子貴母死」制にある。鮮卑では伝統的に妻や母の発言力が強く、拓跋部族長の母の多くが政治に関与していた。北魏を建てた道武帝は、皇帝の生母が権力を掌握することを避けるため、帝位継承者の決定後にその生母を殺す「子貴母死」制を編み出した。前漢武帝が皇太子の生母を殺害した故事に倣ったというが、実際には漢ではその後、皇太后となるのは生母ではなく先帝皇后であること、生母は死後には特別の廟を建てられて正統である太廟とは別に祀られること、などの原則が確立し、歴代王朝も基本的にこれに従ったため、「子貴母死」制は非常に特徴的な方法となった。そうして生母を失った帝位継承者を養育する人物として、その生母と仲の良かったと推測される王鐘児が選ばれたのである。その経緯を本書は墓誌を利用しつつ丁寧に跡づけているが、これは近年、頓に研究の進む東アジア地域の皇后研究にも関連する。二〇二三年に出版された『東アジアの後宮』(勉誠出版)にも鄭雅如「北魏の皇后・皇太后」という文章が収載されているように、「子貴母死」制を含めた北魏の後宮制度は、胡漢の衝突・融合により生じたものであり、関心を集めている。中国の後宮制度が東アジア各地にどう受容されたのかを考える上で北魏の後宮制度は重要であり、本書の学術的意義はこうした点にも認められる。
なお、本書の翻訳に当たったのは田中一輝氏である。氏も魏晋南北朝史の研究者で、『西晋時代の都城と政治』の専著があり、近年は魏晋南北朝を貫く特徴である貴族についての重厚な研究史をまとめられた。さらには『北魏道武帝の憂鬱 皇后・外戚・部族』などの翻訳業績も数多い。しかし本書の翻訳に限っては、残念ながら複数の問題点を有している。日本語として読みにくい、意味の取れない箇所が少なからずあり、原書と対照すると単純な誤字のほか明らかな誤訳がいくつか見つかった。正誤表や修訂版などの対応が待たれる。とはいえ、本書で言及された墓誌の拓本を数多く載せたことは訳者の英断によるものであり、これが北魏時代への没入感を高めてくれている。読み物として優れ、研究にも資するものであることは疑いない。(田中一輝訳)(やすなが・ともあき=関西学院大学非常勤講師・中国史・皇室論)
★ラ・シン=北京大学中国古代史研究中心・歴史学系教授。著書に『中古北族名号研究』『王化与山険 中古辺裔論集』『月亮照的阿姆河上』など。一九六三年生。
書籍
書籍名 | 果てしない余生 |
ISBN13 | 9784409511053 |
ISBN10 | 440951105X |