ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 428
グリフィスの発明したもの
JD モンタージュの可能性に関しては、グリフィス以前においても考えられていました。映画の映像は、それぞれのフィルムの断片に記録されます。異なる映像を続けて上映すれば、その連なりが自然と組み合わされ、見る人はその組み合わせについて意識することになります。シオタ駅に到着する記者の映像の後に、工場から出てくる人々の映像を見れば、もしくはそれとは反対の順で映像を見れば、その繫がりに意味を見出そうとします。それは映画のモンタージュの最も野蛮な形ですが、おそらく映画のモンタージュの起源に最も近いものです。そうした粗雑な組み合わせが、上映のたびに自然と行われていく中で、モンタージュの可能性が自然と考えられていくことになります。
そして、演劇の舞台を何度にも分けて撮影し、それらを繫げることで一本の物語にまとめることも行われました。最初期の映画において、どのように演劇の撮影がなされたのか。一般的に演劇は古典的な「三一致の法則」が基礎にあり連続的です。メリエスの映画のように、フィルムを重ね合わせ、映像を現実から乖離させる特殊効果を施すことはあっても、最初期の映画の時間は舞台の時間と似通っていました。しかしながら、少しずつ映画は、ただ目の前の光景を撮影するだけでは飽き足らず、固有の表現法を発見していくことになります。
映像を繫ぎ合わせることで物語を語ることができる。言い換えると、それぞれのシーンの間に隔たりがあってもいいということにもなります。つまり……それはメリエスの最初の『月世界旅行』にも見られることですが……舞台が急に変わることも可能になる。演劇とは異なり、幕間の休憩を挟み、舞台装置を別のものへと変更せずに、異なる場所へと自然と移行することができる。メリエスの映画は、ジュール・ヴェルヌの原作に基づくものです。それは小説です。つまり、映画は小説の影響も受けることになったのです。小説とは何か。それは、詩と同様に言葉の芸術であり、同時に物語法の芸術です。言葉を用いて何かを自由に語ることに長けた芸術の形式である。ユゴーのように、一人の人間の生き様を、壮大な物語で語ることもできますし、バルザックみたいに生を様々な角度から描き、世界の姿を浮き出させることもできます。またはドストエフスキーの如く、一人の人間の心の内部を描き出すこともできる。偉大な作家の数だけ、物語叙述法があり、異なる世界があります。物理的な制約がある演劇と比較すると、非常に自由に物語を生み出せる可能性があるのです。その点において、映画は小説からの影響を非常に強く受けています。
それと並行するようにして、最初期の映画は、映画固有の空間性も発見していくことになります。つまり、物語の連続性に基づきながらも、少しずつ映像の構図が解体され、映画のスクリーンにより相応しい形で再構築されていった。それはカメラという機械の特性に基づくものです。クロースアップやロングショットなどの技術も、最初期から存在していました。カメラマンたちはあらゆるアングルから世界を撮影してみせたのです。
HK 一九世紀において、パノラマ絵画や気球から見た世界の姿を写したものが一大娯楽になったと言われています。そうした視覚の娯楽の延長にあったということですね。
JD もちろんその通りです。しかしながら、それらは「映画芸術」とは独立する形であって、見せ物のひとつでしかありません。映画のあらゆる可能性は、本当に最初期に探求され尽くしていたのです。しかしながら……それらはカメラの歴史や……言うなれば「技術的な意味における映画史」に関わるものであり、私たちが興味を持っている映画史とは別です。私が興味を持っているのは、芸術としての映画です。それは、科学技術に基づきながらも、それ以上のものです。
話をまとめると、芸術としての映画は、グリフィスによって発明されたということです。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
