ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 408
映画を作る上で重要なこととは何か
JD サミュエル・フラーは、一九七〇年代に入っても、パリとアメリカを行き来していました。伴侶となった女性は、西ドイツ出身の女性です。彼女も通訳として昔からパリにしばしば来ていたので、その頃生まれた娘と一緒に、頻繁にパリに滞在していたのです。そして、ヴェンダースは七〇年代の初めには面白い作品を作っており、名がよく売れていたので、フランス映画やアメリカ映画の伝説を一堂に会して、自分の映画で利用したのです。要するに、背景にあるシネフィルの文化によって成り立っているだけのことなのです。
HK シャブロルもフラーとは関係がありましたね。
JD はい。彼らは昔からの友人でした。しかし、シャブロルはフラーを利用したことはありません。反対に、フラーの映画を手助けしていました。フラーがシャブロルの映画に出演したのではなく、シャブロルがフラーの映画に出演しています。『夜の泥棒たち』(一九八四)を制作するために、それとなく私たちが手助けをしたのです。フラーは、七〇年代には映画が撮れなくなっていましたが、シネフィルたちに伝説として祭り上げられていました。そんなこともあって『最前線物語』(一九八〇)を作ることができ、映画祭や批評の世界で大きな成功を成し遂げました。そして『ホワイト・ドッグ』(一九八二)を作ります。真に優れた重要な作品です。しかし作品自体が、アメリカで大きなスキャンダルを引き起こしてしまいました。アメリカの人種差別問題について、本当に深くまで切り込んでしまったからです。フラーほど直接的に暴力的な表現をすることはタブーだったのです。だから彼は、その後アメリカで映画を撮ることを諦めざるを得なくなり、フランスに拠点を移して活動することになったのです。フランスに完全に居を移したのは八〇年代の終わりです。私の家からさほど遠くないところに住んでいました。何度も近所ですれ違ったことを覚えています。娘と一緒に度々映画館にも来ていました。
HK 近年の映画批評や映画祭を見ていると、シネフィル的な問題が常に付き纏っているのではないでしょうか。それに対して反対する人たちも出てきている。要するに、一方ではヴェンダースのようにして映画史に基づいて、映画を作る人や評価する人がいます。他方で、映画を、社会問題を告発する手段や単に自分の語りたい物語を語る手段として考える人がいる。
JD そして、第一にお金に関わるものとして映画を考えている人がいます。つまり、名声を得る手段として映画を利用する人が以前よりもずっと増えているのです。商業映画を作る人々だけではなくて、〝作家映画〟を作ろうとする人も、制作の目標が映画祭などの名声を得るためになってしまっている。非常に残念な傾向です。
そうした状況とは別にして、「シネフィル的な問題」と「社会問題」「政治問題」は決して相対立するものではありません。反対に、本当に優れた映画ほど、それらを同時に取り扱っています。つまり「映画の問題」と「生の問題」のふたつの要素が、映画を作る上では非常に重要なのです。それは、映画作家の持つ「表現の問題」と「感性の問題」にも関わってきます。映画を作る上で重要なこととは何か。もしあなたが映画作家であり、映画を作りたいと思うのであれば、何か表現したいことがあるはずです。実生活で体験したこと、映画を見て考えたこと、本を読んで気になったことなどなど、出発点となることはたくさんあります。しかし、映画を見たり本を読んだりして、面白かったから単に似たようなものを作ろうとするだけでは、発展はほとんどありません。出来の悪いリメイクを作るだけです。本当に重要なのは、作者が作品を通じて表現したことを感じて、理解した上で自分なりに表現するということです。つまり映画に限らず、本や絵画なども含めて、扱われているテーマは必ずしも表現されていることと一致しないからです。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)