広島のともしび
平尾 直政著
繁沢 敦子
読み始めて思い出した本がある。奥田貞子『ほのぐらい灯心を消すことなく』(1979年)(2015年に『空が、赤く、焼けて 原爆で死にゆく子たちとの8日間』として復刊)。瀬戸内海の島にいた著者が、兄の子ども2人を探して被爆直後の広島に入り、そこで目撃した子どもたちの死に様を描写している。多くの子どもが原爆の犠牲になったことは知られていても、どのような最期を遂げたかはわかっているとはいえない。被爆体験を語れるのは、原爆炸裂時に一定の年齢以上だった人たちである。小さき者たちは記憶がないか、伝える言葉をもたないまま消えていった。誰もが自分のことで精一杯である中、親とはぐれた子どもたちは放置され、助けを求めるすべもなく命尽きていった。その事実に愕然とした。
本書が取り上げる原爆小頭症の人の多くも、声なき被爆者である。妊娠早期に母親の胎内で放射線を浴び、脳や身体に重い障がいを負った。原爆がもたらす理不尽を体現する存在である。原爆を投下したアメリカ側は実際、新兵器が人の生殖機能に与えた影響が世間に知られることを恐れていた。原爆小頭症の娘について、父親が「黙って座っている(中略)その姿そのものが、核の被害」(135頁)と述べたように、放射性兵器の悪を糾弾するのにこれほど相応しい人々はいない。しかし、彼らとその家族は、正々堂々と被害を訴えるどころか、世間から身を隠すことを余儀なくされてきた。生き残った被爆者がしばしば「生きるも地獄」と語るように、偏見や差別に晒されたからである。それは被爆者が障がいのある子どもを産んだという事実によって助長された。
本書は、そうした小頭症被爆者と家族を支援し、好奇の目から守る盾の役割を果たした広島のジャーナリスト・秋信利彦の足跡を追った。秋信は、作家・山代巴が主宰する「広島研究の会」に参加し、胎内被爆者が自殺した事件をきっかけに小頭症の取材を始めた。そして、社会から孤立無縁に生きてきた小頭症被爆者とその家族9組を発掘し、連帯の場を設けたのである。当事者組織「きのこ会」が結成されると、大牟田稔、文沢隆一とともに事務局として原爆症認定や終身保障を求める運動を支え続けた。メディア取材の窓口となり、当事者に直接接触することを制限したりもした。
秋信は昭和天皇が1975年に戦後初めて行った記者会見で、原爆投下は「やむを得ないこと」だったいう言葉を引き出したことで知られるが、その果敢な試みの背景にも小頭症被爆者に対する責任を問うべきという意識があったという。本書は、その人となりや信念、きのこ会との関わり方を通して、「取材者」であり「支援者」である立場をめぐる秋信の葛藤を浮かび上がらせるとともに、ジャーナリズムのあり方を問う。同時に、秋信ら事務局が残した資料を駆使し、小頭症被爆者の戦後史、きのこ会の運動史を提供している。当事者家族の多くが生存中に声を上げることができなかった損失は大きいが、本書がそれを埋め続けていくことだろう。
それにしても、被爆者の問題を理解しようとすると、人権問題と裏腹であると認識せざるを得ない。私たちはどうして、弱者や少数派に烙印を押してしまうのか。原爆小頭症当事者の苦しみは、原爆が露呈した日本の社会問題である。同様の悲劇を繰り返さないためにも、本書が突きつける事実の重みを受け止めなくてはならないだろう。
ここ数年の国際環境の変化で核兵器が再び使用される危険性が高まっている。本書はそれに警鐘を鳴らす作品であると同時に、社会的弱者に寄り添うジャーナリズムの役割を示すものでもある。「隠された部分を掘り当てる」気概のある第二、第三の秋信が生まれることを期待したい。
秋信のようにジャーナリストとしての矜持を保つことは簡単ではないかもしれない。しかし、取材者と支援者を兼ねた例は他にもあるし、信頼関係を築きながら取材する報道手法は珍しいことではない。秋信らがとった行動は、ジャーナリストが良心に基づいて選んだ方法であろう。そのバトンを筆者も引き継いだ。被爆者に寄り添ってきた被爆地ジャーナリズムが、人類が共有すべき「平和文化」(1996年平和宣言)として花開きつつある。(しげさわ・あつこ=神戸市外国語大学教授・アメリカ史・ジャーナリズム史)
★ひらお・なおまさ=ドキュメンタリスト。中国放送でカメラマン、ディレクターとして、平和問題や教育などをテーマにドキュメンタリー番組を制作。報道制作局映像センター専任部長などを歴任し二〇二四年三月定年退職。現在、広島大学大学院博士課程に在籍。取材を通じ原爆小頭症被爆者家族の会「きのこ会」の支援に携わり、二〇〇九年から事務局長を務める。一九六三年生。
書籍
書籍名 | 広島のともしび |
ISBN13 | 9784911256275 |
ISBN10 | 4911256273 |