丹生谷貴志コレクション Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ
丹生谷 貴志著
堀 千晶
フーコーの死の報せが届いた翌月、『光の国』と題された初の単著をたまたま刊行することになった一人の批評家――フーコーがテクストを公刊し始めた年に生まれた――は、注文されなければ何も書くことはない、と言い続けているのだが、(推察するに)注文された通りの内容を書いたことはおそらく一度もない。最初の著作から、完璧に完成された書き手として登場したからだ。
完成、というのはつまり、自身がそこへと/そこから思考を繰り出してゆく「場」が、一九八四年七月以降、四十年以上に渡って一度もぶれていない、というその資質のことだ。追い求めるべき「問題」が一貫し、文体が思考にぴたりと合致しているのである。依頼をきっかけに、どこへ連れ出されようとも決してぶれない、思考の絶対感覚。たとえば『光の国』冒頭部――「単純に同じ場での、同じ場をめぐる反復」、「「光の国」ととりあえず名づけられたオブセッシヴな領域を巡り、あるいはそこに歪なスパイラルを描いて」……(Ⅰ・一九)。
こうした問題‐場をあらわす風景や名前は、様々に変奏されてゆく。たとえば「愚鈍」、「沙漠」、「映画」、「造成居住区の午後」、「老い」、等々。あらゆる事象、意味、価値が蒸発してゆくそのさなかで、中空に漂いだす乾ききった気体が、それでもなおそこに何の支えもなく留まり、束の間模様を描きだす、その宙空の場をたえずめがけるようにして。「ただ蒸発だけが支配する「不毛地帯」」と著者は言う(Ⅱ・三三)。
言うまでもなく、この場は鋭敏な歴史意識によって裏打ちされたものだ。ドゥルーズ『シネマ1・2』(一九八三・八五年)がそうであったように、後期資本主義という、歴史性を霧散させる歴史的な場が、たえず自覚的に問われてきたのだ。様々な巡りあわせもあったであろう、著者以上にこの歴史的な場を体現しえた批評家は他にいない。著者の言葉が戯れるのは、吹けば吹き飛ぶような砂粒が、いたずらに任せて描きだす模様だけだ。
砂と戯れること――「世界は無意味だ、と咳くのでもなく、世界には意味がある、と咳くのでもなく、その中間で戯れる享楽」をたずさえつつ(Ⅰ・四六)、「世界の唯物論的な残酷さに対する許容の資質」とともに(Ⅱ・三八五)、「「絶対に退屈に屈しない」乾ききった行文の集積」によって(Ⅲ・四五〇)。
風の吹きすさぶ地表にある中間領域への「オブセッション」は、徹底的な乾燥、無感動、無機質とペアになっている。湿っぽさ、センチメンタリズムには縁がない。関心があるから取り憑かれているはずではあるが、しかし同時に、関心の粘つきを揮発させる、いわば無関心化と背中あわせのオブセッションだ。
たとえば第Ⅰ巻「中世への途上」で、「哲学」を読み解く際には、幾つかの哲学体系が、「映画」的な観点から迅速に区分されたかと思うと、あっけらかんと「メルロー=ポンティ」と「高倉健」が結びつけられ、「ドゥンス・スコトゥス」と「ロベール・ブレッソン」を並び立たせる。著者は口癖のように、「頓狂な言葉を必要以上に複雑に考える必要はない。単純なことである」と言う(Ⅱ・二五七)。テクスト上に漂うのは、乾いたユーモアの感覚だ。
破壊的ではあるものの、気品のある暴力的な的確さをたたえる、ドライなユーモア。それをもとに、「「笑い」の分量による分類」(Ⅰ・四六―五〇)も行われる。たしかに一群の哲学者たちには「笑い」がある。たとえばフーコー、バルト、ドゥルーズ、スピノザの笑い、そして「憎しみの軽さ」。「笑い」は、「ユーモアの徹底的な欠如」でないのはもちろん、「微苦笑」でもない。『コレクション』じたい、文字どおり笑いながら読む本だ。
ただし、この笑いのなかには、論理(学)へのデモニアックな情熱が潜んでいる。西洋中世の哲学や神学に、著者が魅かれるのもそのためだろう。新たに断章が書かれ、引き出しがあけられるたびに、そこから様々な論理を取り出し、増殖させてゆくかのようだ。論理の錬金術とでもいった趣の、魔術めいたリフレインによる独白の語りである。
こうした論理=光が、宙空に描き出す「半ばフィクション」(Ⅲ・四二三)のテクストは、フーコーの範にもならいつつ、時代を画し、様々な類型を切り分け、根本において何が問われているのかを明らかにしてゆく。その区分けが、学問的な定説であるかどうか(メルロー=ポンティと高倉健)、あるいは、あまりに対象を良く書きすぎていやしないか(たとえば三島)は、差し当たりどちらでもよい。どこに漂着するか分からない行文、「ゼロから捏造するように書いたもの」(Ⅲ・五二四)。それが、ふいに対象のうえへと不時着するさなかに、一瞬閃かせる光景にすべてがかかっている。
先述のユーモアによる分類でいうなら、それが同時に、(無)神論をめぐる思想家たちの分布を鮮やかに示す地図になっているのだ。ニーチェやクロソウスキーもおそらく同種の試みをしたはずだが、著者は古代、中世、近代に渡るキリスト教、イスラーム教、グノーシス、仏教などを渡り歩きながら、絶対/相対をめぐる思考パターンを、様々な領域のなかから収集してくる。いわゆる「神学」だけが神学ではない。
たとえば西洋絵画における絶対/相対、観念/肉体の問題――ありもしない深すぎる「闇」の捏造もそこには含まれる――、および相対が絶対を飽くことなく欲望し、絶対を僭称しようとすること、いわば大きく・深く・高く見せようとすること、その衝迫・暴力・限界が取り出される。その図式のなかにイコノロジーや記号論、さらには「芸術」という制度も位置づけられる(Ⅱ「誘惑と遮蔽」、Ⅲ「「芸術」なるもの、「美術」なるもの」)。
こうした鋭敏な神学理性批判を行いうる著者だからこそ、フーコーのイラン革命への関わり方に、正面から切り込むことができるのだろう(Ⅲ「フーコーのテヘラン」)。日本語圏のフーコー受容の最大の幸福は、著者が「汚辱に塗れた人々の生」の翻訳者だったことにある。
あらゆる意味が蒸発し、命名によるグループ化も霧散するなかで、問われるのは単独性と有限性である。単独者(この人、この身体、この造成地)とは、類や種による分類では語り得ない、理性的言説の縁にあらわれる臨界点だ。同時に、単独者はただ単にそれでしかなく、それ以上でも以下でもない。しかも、それがそれであることに特別な意味も根拠もないし、そこからの出口もない。問われているのは単純なこと、あまりに単純すぎることだ。
「そこにあること、そこにそれがそれとしてあること、つまりは、haecceityに対する、激しいオブセッション」(Ⅰ・五〇七)。「ニンゲンであることへの劇しい憎悪においてなおニンゲンであるしかないということの果てしない線上にある者たちの震え」(Ⅲ・二二四)。「すべてがそのままの姿で、このようであって他のようではないことの平凡さの不気味さの中に宙吊りになる」(Ⅲ・九〇)。
著者の批評的な賭けは、造成居住区や老いを生きる、このどうにも手に負えずやり場のない「小ささ」、あるいは、それぞれの瞬間に壊れ死に消えゆくものを、否定形で理解するのでも、センチメンタルに愛でるのでもなく――過ぎ行くものの儚さやかけがえのなさの絶対化の拒絶――、いかにして闘いと錯乱の場に変えてゆくかという点にある。
闘いに酔いしれることからも、誰かを怨み強く憎むことからも離れて、希望もなければ絶望もなく、乾燥しきった生存以上でも以下でもない、ただの存在を生きること。それがそのまま、「慎ましい、しかしけたたましく戦いの轟きを挙げるその現存そのもの」(Ⅰ・三〇一)になることは、いかにして可能か。この日常をいかに乾き切ったまま、たのしい知識をたずさえて、至福のうちに生き抜くか。
『丹生谷貴志コレクション』は、乾き切った新たな生の像を、言葉を通して立ち昇らせる。その稀有な瞬間に、読者は立ち会うことになるだろう。(ほり・ちあき=早稲田大学非常勤講師・フランス文学)
★にぶや・たかし=元神戸市外国語大学教授・文芸評論家。著書に『光の国 あるいはVoyage en Vain』など。一九五四年生。
書籍
| 書籍名 | 丹生谷貴志コレクション |
| ISBN13 | 9784865032161 |
| ISBN10 | 4865032169 |
