対談=井上 達夫 × 渡辺 靖
<暴政に歯止めをかける法の支配>
米国独立250周年を迎えるにあたり
1月初頭のベネズエラ攻撃、2月末のイラン攻撃。第二次トランプ政権にによる国際秩序を揺るがす行動が相次ぐなか、米国は今年の7月4日に独立250年を迎える。
この節目にあたり、東京大学名誉教授の井上達夫氏と慶應義塾大学SFC教授の渡辺靖氏に、2025年4月4日号に続いて対談いただき、これまで米国が歩んできた道や、この先の司法が果たすべき役割などを議論してもらった。(編集部)
渡辺 今年の7月4日に米国が独立250年を迎えます。それにともない、前回の200周年、つまり50年前の米国がどういう状況だったかを簡単に振り返ってみたいと思います。
サイゴン陥落によりベトナム戦争が終結したのは1975年4月末です。独立200年にあたる76年はその翌年のことなので、米国内にはいまだに敗戦による敗北感が漂っていました。加えて、帰還兵の問題を抱え、それまでの反戦運動の余波も続いていた。いわゆるアメリカ的使命感への疑念、挫折感が生々しく残る時代でした。
また、この時代は74年にニクソンがウォーターゲートで辞任したことによる政治不信も高まっていました。76年7月に独立200周年を祝うパレードが当時のフォード大統領のもと行われましたが、その数ヶ月後の大統領選挙でジョージア州の知事だったジミー・カーターに敗れたという流れも、当時の政治不信を象徴しています。
ところで、76年末には映画『ロッキー』が公開されました。敗北感や衰退感の漂う米国内で、名もなき個人が尊厳を回復していく物語が、ポスト・ベトナムの米国の自己回復のストーリーとして重なり、時代的にマッチしたことで大ヒットしました。
さらに付け加えると、76年というのは、スティーブ・ジョブズやウォズニアックらがAppleを創業した年です。そう考えてみると、いわゆるポスト工業社会、シリコンバレー、デジタル資本主義のようなものの出発点がこの頃にあったとみなすことができると思います。
井上先生は50年前、あるいはこれまでの米国の歩みについて、どのような構図でイメージされますか?
井上 私にとっては、物心がついたときから米国の存在が大きくて、50年前をさらに遡りますが子どもの頃に知った1963年のJFKの暗殺には、よその国の大統領なのに、まるで自分たちの心の支えが一瞬にして奪われたようなショックを受けました。
しかし、考えてみればベトナム戦争への米国の介入が本格化したのは1964年以降ですが、その種を蒔いたのは民主党のケネディです。むしろ、共和党は当時からベトナム戦争に対しては割と消極的でした。それは、共和党の指導的ブレーンで市場中心主義の中核的人物であるミルトン・フリードマンがベトナム戦争を批判していたことにも象徴されています。かたや民主党はというと、反戦運動からヒッピー文化へと進んだ若者たちのようなリベラルな平和主義者たちも後には支持層に浮上したものの、ケネディの後を継いでベトナム戦争を拡大させたジョンソン政権に見られるように、その中枢部は、いまで言う「リベラル・ホーク」のようなタカ派的対外姿勢をとっていた。いずれにせよ、自由、平等、民主主義の旗手を自任する米国が、なぜ、こんな野蛮な侵略戦争に突き進むのか、この素朴ながら根本的な疑問が少年期・思春期にすでに、私の中に芽生えていました。これが私の米国観のひとつです。
もうひとつ。『法と哲学』(信山社)2025年6月号で「老害対老識」という巻頭言を書きました。かいつまんで説明すると、「老害」のトランプが仕掛けた文化戦争に、「老識」を有するハーヴァード大学だけは屈さなかった。それはなぜか。現在のアラン・ガーバー学長は、トランプ政権に対する法廷闘争についてのテレビ・インタビューで、「ハーヴァードはとても古い団体で、この国よりもはるかに古いのです。アメリカ合衆国が存在してきた間ずっと、ハーヴァードはこの国民に奉仕することが自らの役割だと考えていました」と説明しています。コロンビア大学などは、トランプ政権による助成金取り消しという脅しに対して早々に屈してしまった。一方でハーヴァードがいまだに抵抗し続けているのは、自分たちは国家よりも古いという歴史的な誇りがあるからでしょう。
私は、1986年から88年の2年間、フルブライトの交換研究員でハーヴァード大学に滞在していたときにこの「老識」を、身をもって体験しました。86年のハーヴァードでは創立350周年のフェスティバルを行っていて、合衆国よりも古い歴史を誇ると同時に、歴史的な罪も包み隠さず公開していました。そのひとつが、1920年代に名学長とうたわれながらも、ユダヤ系学生に対する逆クォーター制を導入したA・ローレンス・ローウェルに宛てられたユダヤ系卒業生からの怒りの抗議の手紙です。こういった自らの汚辱の歴史を見せるところもまたハーヴァードの凄さなのです。
最近ではハーヴァード自体もいろいろ変わってきているけれど、根底にある学問の自由や、権力者に対しても物怖じせず何でも言う姿勢、そういった自由の気風は変わっていません。
そしてまた、米国の自由を支えているものは、憲法や裁判所、議会といった法制度だけでなく、それに生命を与える精神的な力、国民自らが自由を守るために戦うんだという気概と、それを保ち続けてきた伝統です。その伝統を守る上でも、ハーヴァードのように戦い続ける大学が果たす役割は重要なのです。
渡辺 近年のハーヴァードでは、学内でガザ情勢をめぐる抗議活動をした学部生13人の卒業が認められず、そのことに学生たちは不満を抱いていました。だから、一昨年の卒業式で卒業生代表の女性がスピーチのなかで、総長や教職員、卒業生の保護者らを前にしながら堂々とハーヴァード批判をした。こうした批判が出ることを承知で、事前に検閲をかけたり、原稿チェックしたりせずに、どんな発言だろうときちんと認める。それがハーヴァードにとってのある種の矜持であり、アカデミック・フリーダムを守ろうとしている態度として映りました。ですから、私もその懐の深さに感銘を受けたところです。
その時々の政策や下した判断の中には間違いもあったでしょうけど、民主的な社会を支える原理原則は暗黙のルールとして大切にする。これは、トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』の中で指摘した「習俗(mores)」そのものです。トクヴィルが米国視察によって見出したのは、憲法で書かれた制度設計以上に、それを守ろうとする人びとの心の習俗や暗黙知があることによってはじめて米国の民主主義が成り立っているということでした。ハーヴァードの卒業生のスピーチは、まさにそれを体現していたのです。
井上 国家権力の暴走から自由を守る社会的な力の担い手としては、大学や市民社会的諸団体だけでなく、市場経済も重要です。先に触れたミルトン・フリードマンはリバタリアンの一人とみなされていますが、彼が経済的自由を重視する理由のひとつは、経済的自由が政治的自由を担保するために必要不可欠だという点です。社会主義的統制経済体制の下では、政府ににらまれたら生計の資を得る手段も奪われてしまう。しかし、自由市場経済の下では、政府批判者として当局から目をつけられようとも、消費者からの支持のもとで、したたかに生存し活動できます。米国の「赤狩り」時代にブラックリストに載せられたハリウッドの社会派の脚本家や監督が偽名・匿名で映画作品を制作し続けられた事実などを、フリードマンは象徴的例証として挙げている。自由市場の重要性を説く人たちも、単に経済的利益のためだけではなく、政治的自由という民主的価値を守る視点を兼ね備えている。
ところが現在は、米国の自由を支えている社会的なネットワークが崩壊し、それが世界中に波及しているのではないかと感じる。それこそ、自由の精神の担い手である大学という一つの牙城が崩れてきた。さらに渡辺さんのお話にあったシリコンバレー、かつてそこで活躍した若き起業家たちは、政治的にもリベラルだった。しかし、いまの巨大化したIT産業の経営者たちは、イーロン・マスクをはじめ政治になびき、政商化することで自分たちの儲けにつなげようと画策しています。
渡辺 ピーター・ティールもそうですね。
井上 今までなら、たとえ政治が狂っても、米国の中で自由を守っていた様々な社会的、経済的な仕組みが機能していた。それがここにきてどんどん崩れつつあることは、この50年の歴史が示しているのではないでしょうか。
渡辺 米国の民主主義を支えていた暗黙のルールのひとつに、選挙の結果が正式に確定するのを待たずに敗者は潔く敗北宣言し、相手候補に祝意の電話をかけるといったものがあります。ところが、トランプがバイデンに敗れた時にはそれを拒んだ。あるいは、共和党内でトランプに批判的だったジョン・マケインが亡くなった時に、トランプは「あいつは負け犬だ」と冒涜するなど、挙げればキリないのですが、ここを越えてはいけないという暗黙のレッドラインがトランプ政権、特に2期目になって、随分と軽んじられていることに、一番の危惧を覚えます。
ほかにも、トランプ一族による利益相反も目に余りますし、巨大テック系企業の幹部らがトランプ政権になびいた結果、その傘下におさまったリベラル系メディアでさえ、今となっては政権批判に及び腰です。そうやって見ていくと、議会も、企業も、メディアも、案外弱かったんだな、と。このように、米国の暗黙知で支えられていたものが、ここまでもろかったのかということを、この1年半の米国を見て痛感させられました。
渡辺 とはいえ、権力の座につくトランプが何でもできるかというと、そうとも言えない。たとえば物価高が続き、雇用が不安定化すると、一般市民はもちろん、経済界やマーケットからも政権に対する不満がたまります。そうなっていくと、トランプの周りの政治家たちも、このままだと自分の再選に支障をきたすと感じてトランプから距離を置こうとする。下院の選挙は2年ごとに行われるので世論には敏感にならざるを得ない。選挙の現実が権力者の横暴に歯止めをかけています。
また、司法の役割もとても重要で、保守派の判事が多数を占める現在の連邦最高裁の動向にはじめは警戒していたものの、トランプ政権が打ち出す関税や移民の問題に対して、トランプに指名された保守派の判事であっても政権に与しない判決を下した。それなりに司法の矜持を示した形です。
このように、米国の民主主義を支えてきた暗黙知が崩壊し、非常に危機的状況を迎えつつあるものの、市場や選挙制度、そして司法。この3つが、トランプ政権の完全なる暴走をギリギリのところで防いでいる気がして、そこに若干の希望を覚えます。
井上 渡辺さんがおっしゃるように、米国の様々な制度装置のなかで、特に司法の役割は重要です。そして自由を支える政治的社会的装置が弱まるなかで、司法は踏みとどまろうとしている。現在の連邦最高裁の判事はトランプが指名した人物含めて保守派6対リベラル3の構成ですが、トランプ関税に違憲判決を下したのがいい例です。それから、トランプ政権が設立を目指した「反武器化基金」についても、ヴァージニア州連邦地裁から差し止め命令が下されました。
連邦最高裁の判事というのは、時の大統領から指名を受けて連邦議会上院で承認を受けたら、終身身分が保証されます。つまり、政府による事前統制はあっても事後統制はない。ですから、最高裁判事は、共和党の大統領に指名され、共和党が多数派である上院で指名承認されたからといって、共和党の言いなりになることはない。その最たる例がウォーレン・コートです。リベラルな司法積極主義を象徴しているウォーレン・コートの長官アール・ウォーレンを指名したのは共和党のアイゼンハワーです。いまのロバーツ・コートの長官ジョン・ロバーツも、ブッシュ(ジュニア)の指名をうけたので、当初は保守派と目されていましたが、先に触れたトランプ関税のような政府の暴走とみなされる措置に対しては、ゴーサッチ判事、バレット判事など他の穏健保守派判事とともにリベラル派と連携してこれを抑える判決も出すなど、リベラル派と保守派のバランスをとりつつ、きちんと司法の筋を通しています。
前述の『法と哲学』の巻頭言で、私はハーヴァード・ロースクールの憲法学者ローレンス・トライブ教授のことに言及しました。彼は、トランプによるハーヴァード攻撃や移民弾圧で不安を覚える学生、特に留学生たちに、「トランプの企ては法的根拠をまったく欠き、司法によりそれを実効的に阻止できるから恐れる必要はない」と主張しています。実際、2026年6月8日段階でトランプ関連の訴訟での政府勝訴件数は131件であるのに対し政府敗訴件数は272で、3分の2以上、トランプ政権側が敗訴しているから、決して司法はトランプの言いなりになっていない。むしろ司法がトランプの暴政の歯止め役になっている。
また、トライブ教授は司法の強力な切り札として、政権関係者に対する「法廷侮辱罪」の宣告を挙げます。トランプは自身の支持者や側近に対して恩赦権を適用していますが、この法廷侮辱罪には恩赦権が及ばない。つまり、法廷侮辱罪が適用されたら、その刑は罰金だけでなく禁固も含みますから、たとえ司法長官といえども刑務所に入れられ、トランプはそれを救うことができないのです。
トランプ政権が法廷侮辱罪を恐れている一例が、エルサルバドル移民の一人に対してトランプ政権が行った強制送還をめぐる一連の流れです。法的手続きを経ない強制送還だったため、最高裁はその人物を米国に帰還させるよう要請しましたが、トランプ政権はそれを無視し続けた。しかし、しばらくしてボンディ司法長官がこの人物を米国に帰国させ、米国の裁判所で訴訟手続を進めています。最高裁の命令を無視し続けることで法廷侮辱罪が適用される可能性を恐れたのです。今の保守派有利の最高裁であっても、やることはちゃんとやっている、その典型です。
このように、法的根拠を伴わない政府方針には異を唱える米国司法ですが、実際の戦争、有事となると「アラウンド・ザ・フラッグ=旗の下に集まる」で政府に逆らわず一致団結する大勢に司法も流されるところがある。このことで現在問題になっているのが2月末から続くイラン侵攻です。
そもそも、「戦争を宣言し、敵国船拿捕免許状を付与し、陸上および海上における捕獲に関する規則を定めること」は議会の権限であると、合衆国憲法第1条第8節の第11段落に明記されています。要するに、イラン侵攻についても、当初の空爆だけでなく、今やっているホルムズ海峡の「逆封鎖」措置も議会の同意なしにはできないというのが、合衆国憲法の明示的規定です。ところが、トランプはそれを無視してイラン侵攻を勝手にはじめ、続けてきた。
同じように、大統領が議会の承認を得ずに勝手にはじめたのがベトナム戦争です。そして、議会も黙認してきた結果、米国も大きな痛手を負った。そのことを教訓にして、約50年前の1973年にWar Powers Actと略称される連邦法を制定しました。
渡辺 戦争権限法ですね。
井上 合衆国憲法第1条第8節第11段に反した戦争の開始と続行を制止するために作られた戦争権限法は、まず、連邦議会との事前のコンサルテーションを要請していますが、議会の承認なしに開戦した場合には、60日以内に議会が宣戦布告するか、さらなる60日間の戦争継続を承認しない限り、大統領は米軍を撤退させることを義務付けています。トランプは議会の事前承認なしにイラン侵攻をはじめ、60日経過時点で、議会は宣戦布告も戦争継続承認もしていないのに、空爆戦から海上封鎖合戦への以降を「停戦」とよび、戦争を続行しています。戦時国際法上、海上封鎖は戦闘行為であり、合衆国憲法もこれを戦闘行為とみなし議会が決定権と規制権限をもつことを明定しており、封鎖戦は戦争続行に他ならず、イランと米国は双方の艦船への攻撃もしている。トランプ政権は明白な噓をついて、国際法上違法であるだけでなく、国内法上も違法な戦争を続けてきたのです。
これに対し、米国議会は上下両院ともトランプ党に堕した共和党が多数派であるため、戦争停止をトランプに要請しようとしない(注記:本対談とほぼ同時、米東部時間で6月3日に下院民主党は共和党の4人の造反議員の協力を得て戦争続行制限の両院一致決議案を通過させたが、6月16日に上院はこれを否決した)。しかし他方で、イラン侵攻はMAGA派の一部も含めて米国民の間に反発が強く、中間選挙を控えているため、公然と宣戦布告や戦争続行承認をすることも自制しています。
議会がこんな状況の時、頼りになるのは司法のはずです。政権が戦争権限法違反をしている場合は、米軍関係者や兵士、あるいは国会議員個人が訴訟を提起でき、実際、過去には何度も訴訟が起こされています。ところが、米国の裁判所はこれまで、このような訴訟に対して、「政治問題(Political Questions)」の教義、つまり、軍事外交など政治的インパクトの大きい問題は司法的審査になじまないといって、実質審理せずに、いわゆる門前払い判決を下してきました。政治問題の教義は、日本でいうところの「統治行為論」にあたります。統治行為論は違憲判断を過度に回避する日本の裁判所の司法消極主義を強化するものとして批判されてきましたが、日本よりはるかに毅然と違憲判断を行う米国の裁判所においても、戦争のような軍事外交上の問題については違憲判断回避傾向があるのです。
では、今回はというと、いまだに訴訟提起すらなされていません。それは、訴訟提起したところで、これまで同様、裁判所が政治問題の教義で撥ねつけてしまう、訴訟しても意味がないと思われているのかもしれない。そして、司法に対するこの期待喪失が社会の共通認識になると、この先、同様のことが起きたときに誰も政権の暴走を止められなくなる。私はこの点を非常に危惧しています。
そもそも、大統領の戦争権限を政治問題の教義によって司法審査の対象から外すというのはとんでもない詭弁です。軍事外交政策をどうするかが本来の政治問題であって、これは裁判所が介入すべきではありませんが、かかる政治問題についての決定権の所在と決定手続に関する憲法と法律の規定を執行することは、政治問題ではなく、裁判所が遂行すべき法的責務です。この憲法・法律の規定を破って大統領が議会の戦争権限を簒奪するのを許すのは、法の支配を人の支配にすり替えることに裁判所が加担することを意味し、それこそ、司法の政治化による法破壊です。
イラン侵攻からあと数日で60日経つというタイミングで、カリフォルニア大学バークリー校ロースクールの憲法学教授アーウィン・チェメリンスキーがニューヨークタイムズにこの問題に関する寄稿をし、今回こそちゃんとした審理をすべきであり、政治問題の教義に逃げるべきではないと論じています。司法に本来の責務を遂行させるためには、このような学界・法曹集団からの批判と後押しも重要です。
渡辺 戦争権限法が定めているのは、一定期間内に議会からの承認を得なければいけないということですが、逆の見方をすると、緊急を要するときには大統領の判断で戦争を開始しても構わないのだ、と。ちなみに、戦争権限法のルールに則って事前に議会の承認を受けて開戦した最後のケースは、2003年のイラク戦争です。以降は、オバマのリビア空爆、トランプのシリア空爆、また1月のベネズエラ攻撃、そして今回のイラン攻撃等、議会の事前承認を得ずに開始されたものばかりです。
このように、イラク戦争以降は議会への事前通達のルールが形式的なものになっている。加えて、事前通達をすること自体、軍事オペレーションに支障をきたし、かえって兵士を危険にさらすかもしれないといった言い方もなされています。だからこそ、最近は〝戦争〟とは言わずに〝軍事作戦〟と呼んでいる。これはプーチンも同様です。
渡辺 このような事前通達の形骸化や、あるいは、井上先生の解説にあった司法消極主義しかり、軍事攻撃へのハードルがなしくずし的にどんどん低くなっているのが現状です。
井上 政治問題の教義により、司法が大統領の暴走を放任する状況が生じたのは、実は皮肉なことに、戦争権限法ができて以降のことです。歴史的には司法審査は厳格にされていました。
その歴史的原点が、1793年から94年にかけて新聞紙上で行われた「Pacificus–Helvid-ius Debates」。アレクサンダー・ハミルトンがPacificus、ジェームズ・マディソンがHel-vidiusの筆名で繰り広げた、建国の父たちによる論争です。
この論争は、フランス革命時に欧州諸国から軍事干渉されたフランス政府による支援要請に、米国が協力するかどうかが争われたのを発端にしています。フランスから米独立革命の支援を受けた恩義や、市民革命を擁護する大義名分を共有しているという理由から、米世論がフランス支援に傾くなかで、ワシントン大統領は、自国の国力がまだ不十分で欧州の戦争に巻き込まれるべきでないと判断して中立宣言を出し、フランスへの軍事支援を禁じた。これを支持したのがハミルトンです。
対するマディソンは、合衆国憲法は戦争における米軍の最高指揮命令権を大統領に付与していることを認めつつも、そもそも戦争をはじめるか、続けるか、終結させるかの決定権は議会に帰属させているとし、戦争する軍隊を指揮する者に戦争の開始、継続、中止の権限を与えることは法の支配、権力分離に反すると主張した。法の制定と法の執行を分けるのが自由な統治機構の基本原理だと言って、ワシントン大統領の決定に反対した。
皮肉なことに、当時の政治的文脈ではハミルトン側がハト派的、マディソン側がタカ派的に受けとめられたので、この論争をその観点から評価する人が割と多いのですが、その理解は根本的に間違っています。マディソンが問うたのは、フランス革命を支持する軍事介入が正しいかどうかではなく、あくまで合衆国憲法における三権分立、法の支配の問題です。そして、戦争をはじめるのか、続けるのか、止めるのか、という国政上の最重要課題の決定権は議会にあるとした。
19世紀の米国では、この戦争権限をめぐってしばしば法廷で争われていて、司法はほぼ一貫して戦争の開始・続行・終結の決定権は議会にあるという判決を下しています。唯一、南北戦争時のリンカーン大統領による海上封鎖の決定について、憲法第1条違反にあたらないとしてリンカーン大統領の決定を支持する判決を下しましたが、最高裁はきちんと実質審理をしており、戦争権限法制定以後のような門前払いはしていないのです。
このように、戦争権限の所在は政治的問題だから司法はタッチしないという態度は、法理論的に詭弁であるだけでなく、歴史的根拠も全くありません。これは純粋に、1973年以降の司法の歪みなのです。だから、もう一度米国司法の伝統に戻れという意見が、現在、米国内の法学界からも出ています。
渡辺 ここからは、現在の国際情勢について国際法の観点から考えてみます。井上先生は『中央公論』(中央公論新社)2026年5月号内で、国連憲章第27条3項について言及されています。そこでは、紛争当事国は、投票を棄権すべきだと規定されているわけですが、常任理事国5ヵ国、特に米国とロシアがこの規定を無視している。それにより、国際社会としてのまとまりを欠き、戦争を止めることができないでいると書かれています。
そうした状況を前にして、では、国際法とは一体何なのか。民法や刑法のように、こういうことをやったらこうなる、という量刑の目安が定められたものなのか。それとも単なるガイドラインに過ぎないのか。仮にガイドラインであるならば、国際法を違反したところで処罰が下るわけではないので、トランプは平然と「私は国際法に拘束されない」などと言う。このようなロジックを、米国をはじめとする大国が適用しはじめると、国際法は一気に形骸化しかねません。
とりわけトランプの外交方針は「ドンロー主義」と呼ばれていて、いわゆる「モンロー主義」を転用したものですが、基本的には勢力圏の発想です。下手をすると、米中露の3ヵ国で勢力圏を切り分けて、大国主義で他の国々の頭越しに力ずくでいろいろなものが決まっていく。そうなると、「法の支配」ではなく「力による支配」がますます強まっていくおそれがあります。
さらに言うと、現在は戦争の定義すら曖昧になり、平時と有事の区別がつきにくいグレーゾーンのような状況にあります。そのようななかで、国際法はどれほどの効力を発揮するのか。これはおそらく50年前の独立200周年の時にはほとんど考える必要がなかった問題でしょう。それゆえ、果たしてこれからの社会、世界はどうなっていくのだろうかと、今の国際情勢に強い危機感を持っている人は多いだろうと思います。
井上 たしかに、現状はひどい。世界最強の軍事力と経済力を持っている米国の大統領が、国際法なんて関係ないと言い出している。しかも国連の常任理事国だから安保理決議すら拒否できてしまう。いまや米国は「ならずもの超大国(Rogue Superpower)」と呼ばれている。国際社会の側がこんな米国を抑止するのは、不可能ではないにしても極めて困難です。そうなると、国際社会では法の支配など無意味に見えてしまう。
私は国連と国際法はまったく無力化してしまったとは思っていません。しかし、その問題に入る前に、重要な前置きを一つ。
米国はまがりなりにも立憲民主国家です。だからこそ、外部からの統制が難しくても、国内からの統制によってトランプを縛ることはできるはず。そして、既に述べたように米国には戦争に関して大統領の暴走を抑止する憲法と連邦法のしっかりとした制度があります。だから、まずはそれをきちんと機能させて、トランプの暴挙に歯止めをかけるのが、米国人が国際社会に対して負う責任だと私は思っています。国際社会における法の支配の確保と米国内における法の支配の貫徹は密接に連動しているのです。そこが中国やロシアのように、「内なる法の支配」のシステムがない国とは異なる点です。これまでもマッカーシー旋風をはじめ、米国はたびたび愚行を繰り返してきましたが、多数の専制の狂乱から人々を覚醒させる法の支配の安全装置が最後には機能しました。今回も内なる法の支配システムによる自浄能力を期待したいところです。
ここで、現在の国際法は無意味化しているのではないか、国際法の実効性を担保すべき国連がまったく無力化しているのではないかという、渡辺さんの提起された問題に戻ります。たしかに安保理常任理事国のロシアと米国の無法な蛮行が跋扈する現実を見ると、この問いにイエスと答えたくなる人々の気持ちは分かりますが、私の答えはノーです。2012年刊行の拙著『世界正義論』(筑摩書房)で「たかが国連、されど国連」という見方を示しましたが、この立場は今でも変わっていません。国連と国際法は「万能」ではなく「有能」ですらないかもしれませんが、「無能」でも「無力」でもない。それが無くなるなら世界は今よりさらに悲惨で破局的になるという意味で必要不可欠な役割を果たしている。
たしかに、P5(安保理常任理事国たる5大国)の拒否権はあまりに強すぎて、その権限を縮小させる国連憲章改正についてすらP5は拒否権を発動できてしまう。そうなると身も蓋も無いじゃないかと言われるかもしれません。しかし、先ほど渡辺さんにご紹介いただいた国連憲章第27条3項のように、P5を自らが当事者である紛争に関する安保理決定から排除してその拒否権行使を阻む仕組みは国連憲章の中にあるのです。これをP5に対しても毅然と適用する。もちろんP5はそれを無視するかもしれないけれども、そうなったら国連総会で非難決議をあげればいいのです。
そんなことをしても大した効果はないだろうとも思われるでしょうが、P5といえども、国連の最高機関である総会で非難されることは「痛い」のです。27条3項とは別に、P5の拒否権発動に対して発動国に発動理由の説明責任を総会の場で遂行させるリヒテンシュタイン提案が、多くの加盟国からの賛同を得た上で採択されました。拒否権行使したP5構成国は常に説明責任を負います。そこできちんとした説明がなされなければ国連総会で批判にさらされ、それによりそのP5構成国は威信と指導力を低下させます。
ここで思い出されるのが、ジョセフ・ナイが唱えたソフト・パワー論です。ナイによれば覇権(hegemony)とは、軍事力や経済力といったハード・パワーで他国を恫喝・威迫する強権的支配のことではなく、文化、政治的な価値観、外交政策といった側面から国際社会を精神的に指導していくリーダーシップ、つまりソフト・パワーを意味する。米国のハード・パワーは相対的に低下したものの、ソフト・パワーにおいてアメリカは依然圧倒的に優勢であり米国の覇権は揺るがないと、ナイは1990年代初頭に主張していました。その後、イラク戦争などブッシュ(ジュニア)政権の下で一方主義的軍事介入に米国が走った頃、米国のソフト・パワーが危うくなりつつあると警鐘を鳴らしましたが、まだ回復可能と思っていたようです。
しかし、米国のソフト・パワーは、第一次トランプ政権時点でほとんど失われ、第二次政権で完全になくなりました。昨年5月にナイは逝去しましたが、その死の床で「米国の覇権の死」にも思いをめぐらしたでしょう。そのことが決定的に重要で、今のトランプはやたらと米国のハード・パワーを誇示するけれど、そのたびに米国の脆弱性が浮き彫りになっていきます。イランに関しても、結局はホルムズ海峡を牛耳られてしまった。そして、イランは世界経済を人質にとることで、核よりも安価に米国と交渉できるカードを手にできた。今回のイラン侵攻は欧州を無視してはじめたわけだから、いざ助けてくれと言っても誰も助けない。これが何を意味しているかというと、「ならずもの超大国」とはいえ、自分たちの軍事力と経済力だけで国際社会で好き勝手にやれるわけではなかったということです。ですから、ソフト・パワーを完全に破壊するということは、自分たちの首を絞める行いです。
だからこそ、国連の存在が重要になってくるのです。各国の安全保障問題だけでなく、いわゆる途上国支援や経済協力、地球温暖化対策など、世界情勢を取り巻く様々な問題について、200ヵ国近い国々を包摂する形で広範な利害調整・合意形成を図ることができる。その意味で、最もレジティマシーが高く、かつ包摂範囲の最も広い制度が国連なのです。そこで名誉ある地位を占めるということは、単に倫理的な問題にとどまらず、国際社会での自国の威信と権威、すなわちソフト・パワーを高めるために不可欠です。今日においては「ならずもの超大国」といえども、このことを自覚せざるを得ないはず。それがわからずにトランプが暴走を続けるなら、彼は「米国を再び偉大にした大統領」としてではなく、「米国を卑小な国家に転落させた大統領」として歴史に記録されるでしょう。
渡辺 パクス・アメリカーナによる世界秩序が、かなり明確な形で第二次大戦後から80年近く続いてきたわけですが、それを成し得たのは、まさに井上先生がおっしゃるソフト・パワー、米国が掲げる理念や価値観があったからで、単に軍事力や経済力のハード・パワーを誇示するだけではここまでうまくいかなかったでしょう。それは過去のパクス・ロマーナやパクス・ブリタニカにも同じことが言えます。帝国の支配下におかれること自体はものすごく屈辱的なことだけれども、一方で帝国の統治下にあることで受けられる恩恵もありました。
渡辺 ではこの先、米国に取って代わって中国が世界の覇権を握るのか。たしかにハード・パワーはあるかもしれないけれども、ソフト・パワーの面、すなわち中国のようになりたいと思えるような、理念や価値観というものがどうも見えてきません。
そうなってきたときに、パクス・アメリカーナでもパクス・シノワールでもない世界をどう構築していくのか、という話になると思います。そこで井上先生は、前述の『中央公論』の論説の中で、いわゆる民主主義、法の支配を守るために志を同じくする中堅国がスクラムを組んでいかなければいけないと指摘していて、私もその意見に賛成です。
井上 「中堅国連合(Coalition of the Middle Powers)」のメンバーとして想定されている「中堅国」とは、国際社会の法の支配や立憲主義、民主主義といった基本的価値を共有し、中規模程度の軍事力、経済力を有する、独立した主権国家を指します。欧州諸国をはじめ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、それからアジアでいえば日本と韓国あたりの集合を想定しています。
私はこの中堅国連合が米国に変わって世界の覇権を握るとは考えていません。むしろ、米国や中国など軍事力・経済力両面における超大国、またロシアのような軍事大国が横暴化するのを制御するカウンターバランス的存在と見ています。比喩的に言えば、中堅国連合の機能は、経営者に対する労働組合による団体交渉のイメージで捉えることができます。労働者一人ひとりでは強い経営者に勝てないけれども、団結すれば、経営者は交渉のテーブルにつかざるを得ない。マルチが嫌いでバイが好きなトランプに対しても、「一対一」で向き合ったら圧倒的な米国の力の前に屈してしまうけれども、各国が連帯して「多対一」で交渉すれば立ち向かうことができる、という発想です。
多少似た流れは、NATOの歴史の中でも何回かあり、たとえばブッシュ(ジュニア)の時代に、NATO内に米国を外した欧州司令部を作ろうといった動きもありました。そうはいっても、欧州のNATO加盟国は、あまりにも米国に依存しすぎた。そこをトランプに突かれた格好です。なので、ウクライナ戦争以降、欧州諸国も急速に学習し、軍事面での再強化を進めています。
渡辺 有志国がスクラムを組み米国に物申すといっても、トランプは批判されると逆ギレするタイプなので、どこまではっきりと声をあげられるか。カナダやスペイン、イタリアのリーダーたちならまだ米国を批判しやすい立場にあるかもしれないですけど、周囲を中国、ロシア、北朝鮮に囲まれた日本は、米国が唯一の同盟国ということもあり、中堅国連合の枠組みの中にあっても、面と向かってトランプに異を唱えるわけにもいかない。そこが外交の難しさです。
食糧やエネルギーに乏しい日本は米国のように自国ファーストを貫くのはどう考えても非現実的なので、「自由で開かれた世界」の維持は不可欠です。また、軍事力や防衛力にも限界がある以上、「法の支配」は日本にとって決して綺麗事だけでなく、国益を守る上で不可欠の原則です。そうした観点からも、今後、日本が国際社会に対して果たす役割はとても大きくなると思います。国益と国際益は必ずしも矛盾しないはずです。
井上 ところが、日本は世界有数の武装組織としての自衛隊を保有しながら、憲法9条第2項が戦力保有と交戦権行使を明示的に禁じているため、強大な軍事力を持つ自衛隊が戦力として認知されないばかりか、戦力統制規範(戦力の濫用を抑止するためにその編制・発動手続・濫用処罰などを厳格に規定する規範)を憲法上定められないのです。戦力は保有も行使もしないと憲法が宣明しているのに、その濫用を統制する規範を憲法が定めるのは自己矛盾で論理的に不可能ですから。それゆえ自衛隊に対する首相の防衛出動命令の濫用を実効的に抑止する厳格な国会事前承認手続も憲法上定められないし、自衛隊の戦争犯罪を裁く軍事司法体系もない。ここで詳述できませんが、いわゆる「事態対処法」の国会承認は事後承認でいいことになっていますが、事後承認は事後追認にしかならないし、その緩い規制ですら法律なので時の政権によって簡単に骨抜きできる。交戦法規を国内法化する軍法は刑法と性質を根本的に異にするため、後者で代替できません。
こういう非常に危険な体制のまま問題を先送りしていたのは、いざ事が起きたときには同盟国の米国が守ってくれるから、自衛隊を憲法上曖昧な存在に放置していても大丈夫と考えていたからです。けれども、日本の安全保障を主体的に担うのは本来日本人自身の役目なのです。だからこそ、憲法9条を抜本的に改正して、自衛戦力の保有行使を明認すると同時にそれが濫用されないように、憲法で戦力統制規範を明確に規定しなければならない。
ドイツとイタリアは日本と同じ旧敗戦国で、NATO加盟国として米国と軍事同盟を結んでいるという点でも日米安保の同盟関係をもつ日本と同じです。この両国は、他の欧州諸国と同様、今般のイラン侵攻ではっきりと自国内の米軍基地をイラン攻撃のために米国が使う事を拒否しました。しかし、日本はそれが出来ず、後で言うように在日米軍基地をイラン侵攻のために米国に使わせました。この違いはなぜ生じるのか。それは、ドイツやイタリア含め、NATO加盟国は自国憲法で自衛戦力の保有行使を明認し戦力統制規範も定めているからです。米国との同盟以前の前提として立憲主義的に統制された仕方で自国を主体的に守るための安全保障体制を有している。それにより、米国に基地使用管理権を全面的に与えずに済んでいる。一方、日本はどうかというと、日米地位協定によって米軍基地の使用管理に一切口を挟むことができません。それにより、日本はドイツやイタリアのように、米国のイラン侵攻には協力しないし、イラン侵攻に直結する目的で基地は使わせないとはっきり言えないのです。このような属国的な地位協定を日本が改正しようとしないし、できないのは、立憲主義的に統制された自衛戦力の保有行使が憲法上認められないため、いざとなったら米軍に頼るという米国依存症から脱却できないからです。
私は、先ほど米国の国内の法の支配の機能不全と、国際社会における法の支配の破壊が連動していることを指摘しましたが、実は日本についても、軍事力に関する立憲主義的統制の欠損という「内なる法の支配」の破綻が、米国による「国際社会における法の支配」の破壊への加担と連動している。憲法9条問題を抜本的に解決しない限り、国際法を破壊する米国の軍事介入に日本は付き合わされるし、現にイラン侵攻ではすでに付き合わされています。
イラン侵攻にあたり、沖縄からは海兵隊2000人以上を、佐世保からは海兵隊を上陸させるための強襲揚陸艦トリポリを派遣している。しかも、それだけにとどまらず、イラン空爆に使われたトマホークの一部は、横須賀から派遣された米国イージス艦ミリウスとジョン・フィンから発射されたと言われています。イラン革命防衛軍の元隊長が、在日米軍基地がイラン攻撃に使用されたのであれば、日本も攻撃対象に含まざるを得ないとはっきり言及していますから、今の親米湾岸諸国の米軍基地に対してイランが実際にやっている激しい攻撃を、本来なら在日米軍基地も受けてもおかしくない。今そうなっていないのは、中東地域を越えて遠方まで攻撃対象を拡大できるほどの軍事的余力がイランにないことと、日本が石油購入などでイランとの経済的利害関係が深いため、日本の軍事的関与が浅いならある程度までは黙認するとイラン側が考えているから。あくまで戦略的自制に過ぎません。
渡辺 そのとおりですね。
井上 日本がまずすべきなのは、憲法9条問題を抜本的に改正すること。9条2項を温存して自衛隊を明記するだけという今の自民党の「加憲」案は何ら問題の解決にならないどころか、憲法自体を自己矛盾に追い込んで論理的に自殺させてしまう。最低限、9条2項を明文改正して自衛戦力の保有行使を明認し、文民統制、国会事前承認、軍法・軍事司法根拠規定など最小限の戦力統制規範を憲法に盛り込む必要があります。これが、日本が国際社会に対して負う責任です。私はまず、憲法9条を正しく改正して、少なくともイタリアやドイツ並みの「まともな旧敗戦国」になるべきだと、ずっと主張してきました。それこそが、戦争を、過去の歴史を反省するということです。今のまま憲法9条に手を付けずに、米国に隷従した道を行くのであれば、中堅国連合に参加する資格はありません。
日本が憲法改正をきちんとやり、米国隷従をやめた上で中堅国連合に加わり、そこから米国と団体交渉を行う。それにより、米国人たちに、世界を自分たちが思うように支配できる力など米国にもないことを自覚させるのです。日本が米国の軍事的属国にとどまるなら、中堅国連合の足手まといになるだけです。
どの国も、単独のハード・パワーだけでは好き勝手できない。それをやると自分が傷つく。いかに超大国であっても、誰しもが「可傷性(vulnera-bility)」という弱点を持っている。だからこそ私は、shared vulnerabil-ityが重要だと前述の拙著『世界正議論』などで言及してきました。そしてこのshared vulnera-bilityが法の支配の実効性を担保する基本要因になります。
実はこれは新しい概念ではなく、ホッブズが『リヴァイアサン』で人間の「自然的平等」という言葉で論じていることです。自然において人間は平等だとホッブズが言うのは規範的要請ではなく、生の事実を指しています。「最も強い者でも最も弱い者に殺され得る」という事実です。好き勝手にやっている暴君でさえ、あまりにもひどいことをやっていると小姓に寝首をかかれかねないのです。
しかし、米国が世界の中心だと思っている米国人の多く、特にトランプの岩盤支持者たちは、まだそのことを無視ないし軽視している。実はトランプもわかっていない。ベネズエラ侵攻はマドゥロ大統領夫妻を米国に差し出して権力簒奪を求めたロドリゲス一派と米国の隠れた共演でした。ところがトランプ自身も、ベネズエラ侵攻の「成功」は専ら米国の卓越した軍事力のおかげだと過信したまま、何の計画も事前工作もなく杜撰にイラン侵攻に走った。その結果はどうか。大した成果もあげられずに、しかも欧州からの協力すら得られない。ハード・パワーだけで物事が全て解決できるほど、世の中は甘くない。そのことを米国人にわからせるのが、中堅国連合による団体交渉なのです。それを通じて、世界は米国だけで回っているわけではないことを、この先、米国人たちに学習させなければならない。
渡辺 今回は深入りしませんが、次回の対談のときに井上先生とAIのことをテーマに、きちんとお話ししたいと考えています。今回はそのさわりを少しだけお話しして対談を締めたいと思います。
世間的にはAIとガバナンスの関係、AIが変える戦争シーンなどの議論で盛り上がっています。実際、現在行われている戦争でも人間が直接戦地に出向かず、AIを活用しながらドローンやサイバー攻撃などを駆使するやり方が主流になってきています。ロボット兵士の誕生も現実味を帯びています。そういうなかで、果たして平和というものをどう考えていけばいいのか。
井上 AIについてはよくわからないというのが正直なところですが、軍事技術の急速な発展について2つポイントがあると考えます。ひとつは、政治的意思決定や軍事オペレーションでAIを使っていいのかということと、もうひとつはドローンによる戦闘形態の構造変化です。後者について言えば、何よりもウクライナ戦争を通じて、ドローンが戦争のパワーバランスを変えたのではないか。1発数百万ドルかかる迎撃ミサイルや巡航ミサイルなど精密兵器を準備するより、高性能型でも1台数万ドル、簡易型ならもっと安いドローンを大量に発射して、その内何発かが相手国の戦略的に重要な拠点に命中すれば、深刻なダメージを与えられます。そうなると、従来のハード・パワーの象徴だった核兵器や強力精密兵器を保有している大国が必ずしも有利とはいえず、戦力の乏しい小国でさえ、大量のドローンによって効果的な攻撃ができる。
特にウクライナの場合、米国からの軍事経済的支援を止められたがために、かえってドローン兵器の技術が進み、それによりロシアの攻勢を殺いで失地回復し、ロシアの石油施設などに甚大な被害を与えつつあるだけでなく、米国への依存度がこれまでよりも低下してきているようです。そういう現実もあり、これからの戦争を考える上で、ドローンを念頭に置くことは本当に重要になると思います。
渡辺 イランにしても、ドローンをかなり効果的に使っていますね。
今回の戦争を見ていてわかったのが、プーチンにしてもトランプにしても、あくまで核は使わないということです。かねてより、衝動的に、咄嗟に核の発射ボタンを押してしまう可能性が危惧されていましたが、それだけは絶対にしてはいけないという抑制がきいているようです。そこが最後の希望なのかもしれません。
井上 とはいえ、核兵器を使わずとも、大量のドローンで原子力発電所を攻撃して、その内の何発かが当たれば、核を使ったのと同じ効果が得られます。
渡辺 むしろ使う必要もない、と。
井上 そう考えると、核保有国が核兵器使用を自粛し、非保有国の核兵器開発能力を剝奪して核不拡散体制を固守すれば、核戦争のリスクを避けられるという前提が根本的に崩れてきているのかもしれません。
渡辺 この先のトランプ外交の展開も含めて、次回はこのあたりの議論を深めていければと思います。(おわり)
★いのうえ・たつお=東京大学名誉教授・法哲学。著書に『悪が勝つのか?』『ウクライナ戦争と向き合う』『生ける世界の法と哲学』『立憲主義という企て』『世界正義論』など。一九五四年生。
★わたなべ・やすし=慶應義塾大学SFC教授・文化人類学。著書に『アメリカとは何か』『リバタリアニズム』など。一九六七年生。
