ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 454
ジャック・ドゥミの晩年の作品
HK クリストフ・オノレの映画は、九〇年代にブノワ・ジャコーやオリヴィエ・アサイヤスが作り上げた、パリの小さな世界に基づいていますね。
JD その通りです。彼は、知的に映画を作っています(それはアサイヤスやジャコーにも言えます)。目の前のちょっとした問題にしか向き合うことができず、自分の映画を見出すことができていません。それは、彼らだけの問題ではなくて、今日の多くの映画作家にも関わる問題です……。
HK ドゥミは、ダニエル・ダリュー、ジャン・マレーといった役者を、二度ずつ出演させていましたね。しかし『都会の一部屋』、『パーキング』の時代のドゥミは、あまり語られることはありません。今日でも彼の映画が上映される機会があれば、大半は『ロバと王女』、『シェルブールの雨傘』、『ロシュフォールの恋人たち』、『ローラ』だけです。
JD なぜなら、晩年のドゥミの映画は良くないからです。
HK そのように切り捨ててしまう発言は珍しいですね(笑)。ニコラス・レイやフリッツ・ラングの作品であれば、最晩年のものを高く評価しているのとは正反対です。
JD ドゥミの映画が、ヌーヴェルヴァーグの映画作家と比較すると重要度が低いというのは、そのことが理由の一つです。つまり、トリュフォー、ゴダール、ロメール、シャブロルといった映画作家が、新たな映画を作り続けていたのとは異なり、ドゥミはずっと同じ映画を作り続けていたのです。彼が、フランス映画において、独自の演出に基づく映画を作り続けていたことは事実です。さらに彼は、同性愛、近親相姦など性に関わる問題、現実と空想の世界の混在などに関心を持ち続けました。そうした問題を見つけ出し、自分だけの映画を作れるだけでも良いことです。
しかし、彼の映画は少し単調なところがあります……。いつもミシェル・ルグランの音楽を流し、馬鹿馬鹿しい台詞回しの演出をしている。そうした演出が上手くいっている時は良いのですが、例えば『ベルサイユのばら』や『パーキング』のような作品では空回りしてしまっています。
ダニエル・ダリューが出演していた『都会の一部屋』も、ドゥミの映画の一部をなしていて、興味深くはあります。彼の出身地であるナントを舞台として、労働者のストライキを背景にし、そこにブルジョワジーの家庭の問題が入り込む物語です。ドゥミの映画全体からしても非常に陰鬱な映画です。ドゥミの感性が最も強く表現されている作品でもあります。その作品を見れば、ドゥミの映画の基調となっているものがよくわかります。彼の映画は決して陽気なものではないのです。
HK 『都会の一部屋』も『パーキング』も、確かに演出が空回りしている感じはします。
JD 『パーキング』は、考え自体は興味深いものです。つまり、コクトーの『オルフェ』に対するオマージュです。そのため、ジャン・マレーが出演するのは必然です。しかし、駄作です。役者のキャスティングも悪ければ、演技指導も映画の作りも悪い。何一つとして上手くいっていません。
七〇年代以降のドゥミの映画は、そのようなところがあります。つまり、彼は別の映画を作ることもできたはずですが、『王女とロバ』の商業的大成功以来、似たような映画を作り続ける羽目になっていました。そしてその結果、多くの駄作を生み出しています。
HK ミネリが、晩年にはミュージカル映画というジャンルから解放されたのとは正反対ですね。
JD まさにその通りです。ミネリがミュージカルというジャンルから解放されたのとは正反対に、ドゥミはミュージカルというジャンルに囚われることになってしまったのです。
ミネリに関しては、晩年の作品の方が重要なものが多い。しかし、ドゥミの晩年の作品はさほど重要ではありません。彼ならではのテーマが繰り返され、ドゥミ映画の世界観の一部を作り上げていますが、見るべき作品は他にあります……。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
