2026/05/15号 5面

忘却の効用

〈書評キャンパス〉スコット・A・スモール『忘却の効用』(橋本頼)
書評キャンパス スコット・A・スモール『忘却の効用』 橋本 頼  情報過多と言われる現代なら、私たちは覚えるよりも忘れることから始めた方がいいのかもしれない。執着じみた飽和より、遊びのある余白を。本書『忘却の効用』は、そんなある種の許しを筆者に与えてくれた。  第一章で語られるのは、神経科医である著者の元を訪れた、カールという患者の事例である。カールの記憶に関する悩みと、その原因を診察していくプロセスと共に、忘却に関する基本的な脳のはたらきが紹介されていく。ここは専門的な単語を多く目にすることになるが、軽く読み流しても問題はない。  次いで二章、三章では、自閉症スペクトラムにみられる文字通りの閉じた記憶と、PTSDにみられる色褪せない恐怖の記憶が紹介される。「恐怖の一部をうまく忘れることができ、思いやりを持つ余裕があって怒りを抑えられる人びとは恵まれている」という「恐怖」を扱った第四章でのまとめは、自閉症や戦争体験のない筆者の心にも、すんなり舞い降りるような知見だった。  章が進むにつれ、ハードな専門科学に、ソフトな忘却の視点が入り混じってくる気がする。「気がする」というのは、第一章から語られてきた脳のはたらきを筆者が記憶し、専門的な単語を目にしても、抵抗なくその意味を理解できるようになっていた、とも言えるからだ。思い出せる知識を増やすのは坂道を下るのと同じことで、後半ほどページをめくる速度が早まるのは、娯楽小説も科学書も変わらない。アルツハイマー病の事例が紹介されて、むしろ安心するほどである。  過剰な記憶の問題点として、第七章では、憂鬱な懐郷と攻撃的な愛国心について言及しているが、筆者が想起したのは、やや異なる迫害意識の形成だった。それは愛情ホルモンと呼ばれることがあるオキシトシンの作用、つまり仲間内での強い結びつきと、仲間以外への攻撃性の助長である。恋のように盲目とまでは言わずとも、緊密すぎる記憶もまた視野を狭める。そこに自己を顧みる視座の高さと、他の存在を許す懐の深さはないのだろう。  「紛争の絶えない中東で育った」と語るイスラエル出身の著者は、兵役の経験があり、9・11アメリカ同時多発テロの瞬間を、マンハッタンの医療センターから目撃してもいる。そんな彼が「赦すための忘却」について述べる箇所には、引用されている国家の歴史以上に、著者自身のたしかな記憶への感慨がある。怒りや嫌悪に囚われそうな意識から、ふとそれを手放した時の軽やかな心地。時間が前に進みつづける中で、過去と未来に境界のない私たちの意識には、やはり忘却が必要だった。  本書を読み終えたのは数年前のことだ。それから本稿を書くにあたって全体に目を通し、何度も同じページを開きなおす中で、これらの文章を思い付いた。それは一読書体験における、前向きな記憶の欠落だった。(寺町朋子訳)  ※プロフィールは応募時のもの。

書籍

書籍名 忘却の効用
ISBN13 9784826902588
ISBN10 4826902581