2026/06/26号 5面

「見ることの純粋な喜び」(ジャン・ドゥーシェ氏に聞く)442(聞き手=久保宏樹)

ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 442 見ることの純粋な喜び  JD 私たちは、画家の描く絵の中に、その「仕事」を感じることができます。それは同様に、戯曲、演劇の演出、小説、詩、音楽などなど、あらゆる芸術に言えることです。それぞれの芸術には、固有の表現があるのです。そして、その芸術を受容する私たちは、それぞれの芸術の異なる手法から、それぞれの持つ感性を通じて感銘を受けることができる。問題は、その芸術を感じることができるか否かということです。  HK 例えば、ハワード・ホークスの作品は、感性に基づくものなのでしょうか。『カイエ』の最近の批評家がつい先日、「歴史的な重要さはともかくとして、ホークスが楽しめない」といった趣旨のことを発言していました。  JD それが大きな問題なのです。ホークスが楽しめないのであれば、映画の快楽は理解しようもありません。ホークスの映画には、見ることの純粋な喜びがある。つまり、映画における「アクション」によって成り立っている。その「アクション」は、映画を思考すする上で――とりわけアメリカ映画を考える上で――本当に大事なものです。ホークス映画においては、一度映画が飛び立つと、さまざまな要素が地続き的に連なりながら、終着点へと向かっていきます。それらが無駄なく展開され、あるべきところへと収まっていく様子は、見ていて非常に楽しい。  HK ドゥーシェさんは、ホークスの映画を「慣性の法則」に喩えて話をされていたと記憶しています。ゴダールの映画が「量子力学」のような不確定性で成り立っているのに対して、ホークスは「古典力学」によって成り立っている。そんなことを言ってました。  JD 私が、そのような表現をしていたのですか? とても良い表現ですね(笑)。つまり、ホークスの映画は、ある種の「明白さ」で成り立っているということです。原因、展開、結果、影響が、実に無駄なくはっきりと表現されている。例えば、『コンドル』には、全く無駄な要素はありません。登場人物から、登場するオブジェ、さまざまなプロットなどなど、映画を形作るあらゆる要素が、本当に見事に演出されています。映画に役立たない要素は、一切登場しません。ホークスの映画においては、あるべきものがあるべき瞬間にあるのです。そして、場面を説明するためだけの無駄なショットであったり、不必要なセリフはありません。  HK それを「演出」もしくは「映画の芸術」と捉えてよいのですか。  JD はい。一つの「演出」です。しかし「映画の芸術」には、さまざまな表現があります。ホークスの演出だけが全てではありません。ただ、映画史においては、最も優れた重要な映画作家の一人です。  HK ホークスの映画を楽しめない批評家は、おそらく映画の見方が根本的なところで違っているのだと思います。つまり、映画を意見表明のためのものとして見ているところがある。物語構造、扱う内容、作者の思想や立場といった面ばかりが注目される傾向が強まっています。コッポラの映画が嫌厭されているのも、ホークスの場合と似た理由だと思います。コッポラの映画は、男性的だとか、物語が破綻しているといった理由で批判されています。  JD 結局のところ……そうした受け取り方しかできない人たちは、映画の良し悪し、つまり映画の持つ快楽がわからないのです。コッポラは、現在においても、映画を前に進めている数少ない映画作家の一人です。確かに彼の映画は、非常に複雑です。しかしながら同時に、アメリカ映画の歴史を引き継いでいる正統な「アメリカの映画作家」でもある。彼の映画が複雑なのは、アメリカという国や歴史が複雑化した結果の反映です。そして、アメリカ映画が複雑化した結果でもあります。  コッポラの映画は、長年にわたり、映像的にも物語叙述法的にも、他のアメリカ映画の先にありました。それ故、簡単ではありません。けれども優れた映画批評家であるならば、それを感じ取ることができなければいけない。それがわからないのであれば、本当に残念でなりません。  HK ホークスとコッポラの両者に言えるのは、映画の内容が決して「倫理的」ではないということです。彼らの映画は、ケン・ローチの作品のような「正しい」映画でもなければ、最近のカンヌ映画祭で流行りの社会的な問題を取り扱う映画でもありません。  JD はい。     〈次号へつづく〉 (聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)