星になっても
岩内 章太郎著
頭木 弘樹
死というのは不思議なものだ。人がたくさん殺されるミステリーやアクション映画などを大勢の人が喜んで楽しむ。しかし、真面目に死と向き合うとなると、今度は目をそむけたがる人が多い。軽くあつかえば娯楽になり、重くあつかえば忌避される。その中間、死について普通に語るということは可能なのだろうか。
本書は、70歳の父親を亡くした36歳の哲学者が、その思いを一年以上にわたって雑誌に連載したものだ。亡くなってすぐに書き始められ、一ヵ月に一回のペースで、そのときの気持ちが書き留められている。「全体を通して読むと、少しずつ心境が変化していく様子も見ることができる」と著者自身が書いている。
本書の貴重さは、まずそこにある。あとから振り返って過去の気持ちが書かれているのではなく、そのときの〝今〟の揺れ動く気持ちが書かれている。嵐に揺れる船の上で書いたものと、あとから陸で書いたものとでは、どうしたってちがう。身近な人の死を体験したとき、人はどんな思いになるのか。知りたいのは、結論ではなく、その揺れ動きだ。
この本を読みながら、自分の身近な人の死を思い出す人も多いだろう。私も31歳のときに69歳の父を亡くしている。だから、そのときのことを思い出しながら読んだ。家族というのは、どれも似ているようで、すごくちがう。父と子の関係も。小学生のとき、初めて友達の家に泊まった日、自分の家といろんなことがちがっていて驚いたものだ。この本を読んでいても、ちがうものだなあと思った。その一方で、気持ちがすごくわかるところもある。著者は「この本に綴られているのは、私の個人的な体験である」と書いているが、個人的な体験こそ、他の人間にとっても、自分の個人的な体験が喚起され、人間の普遍的な思いも気づかされる。「身近な人を亡くした人のうち、何パーセントがこういう気持ちになる」というような統計的な情報からは得られない感動だ。
著者は哲学者だ。それも「そもそも私が哲学の道に入ったのは、人はみないつか必ず死ぬという当たり前の事実が嫌だったからなのである」という人なのだ。しかも「私は自分の死が怖かったが、いつか両親が死んでしまうことを最も怖れていたのである」とのこと。そういう人が、父を亡くしたのだ。そのとき、いったいどういうことを考えるのか。本書はエッセイだが、三章だけ哲学の観点から死について考察してある。これがとても興味深い。
「神話や宗教が共有されない時代に、死のイメージは個人の裁量(思想や表現)に委ねられる」それが「死にゆく者の孤独」につながり「死の意味を他者と共有することができなくなり、死の不安を一人で引き受けなければならない」という「現代ならではの課題」が現れるという指摘は、まさに私の不安を突かれた思いがした。信じるものがないから、自分の死は自分だけのことであり、イメージすらないから、死ぬ前になって「死ぬってどういうことなんだろう」という答えの出ない難問に苦しめられそうだ。
「まだ死んでいないにもかかわらず、〈私〉はもはや他者から必要とされていないし、周囲の人にとって自分は何の意味も持っていないのだ、と、そう思わされること、これが死にゆく者の孤独の本質なのである」という指摘も、本当にそうだと思った。死はしかたなくても、こちらはまだ改善の余地があるはずだ。
重い部分を紹介したが、全体は優しくあたたかい筆致で書かれている。公園で餌をついばむたくさんの鳩を見ながら、「章太郎、お前、あの鳩を幸せだと思うか」と父が問いかけたというのは印象的だった。父が亡くなったあとの気持ちを聞かれた母が「いまはね、章太郎には分からないと思う。分からない方がいいよ」と答えたのも心に残った。
私自身の経験で言うと、父が亡くなって時間がたつほど、年齢を重ねて子ども時代から遠ざかっていくほど、喪失のかなしみは癒えていくものと思っていたのだが、そうではなかった。意外にも喪失感は増していき、ときおりかなしみに胸をつかれる。本書の著者はどうだろう。10年後にもまた、父についての本を書いてほしいものだ。(かしらぎ・ひろき=文学紹介者)
★いわうち・しょうたろう=豊橋技術科学大学准教授・哲学・倫理学。著書に『〈私〉を取り戻す哲学』『新しい哲学の教科書』『〈普遍性〉をつくる哲学』など。一九八七年生。
書籍
書籍名 | 星になっても |
ISBN13 | 9784065391365 |
ISBN10 | 4065391369 |