2026/01/23号 6面

ゆっくり歩く

ゆっくり歩く 小川 公代著 元橋 利恵  本書は、ケアの倫理の議論で著名な英文学者である著者が、パーキンソン病の診断をうけた母親(以下、母)への介護の「ケアフォー」(ケアを引き受けること)の物語を 共有する作品である。研究者として合理性のリズムが支配する世界で活躍してきた著者が、母の介護のトライアル・アンド・エラーを繰り返すなかで、「わたしのなかにあるゆっくりしたもの」をみつけていく。  ケアを語ることは困難なことだ。場合によっては、わたしはこれだけよいケアをやれているという成功の語りになり得る。かといって、ケアの失敗について語ることは罪悪感もおおきく、加害や暴力として理解されることもあるため、非常に勇気のいることだろう。しかし、成功や失敗について語るというのがケアを語るということなのだろうか。本書は、そのような方法はとらない。どうしたら成功するかまたは失敗になるか、何が役に立ったのかというハウツーや処方を伝えるのでもない。では何をしているのか。ケアを物語として表現し、同時にその物語がケアとなることの実践ではないだろうか。  たとえば第6章のエピソードでは、余裕がなくなった著者が母に「そんなんじゃ、誰も力を貸してくれへんで」といってしまう。だが本書は、その失敗を分析し、二度と起こらないように原因をつきとめ防止する、というわけではない。本書では母と著者ふたりの出来事から、祖母や父、叔母、甥などによってつくられている関係性の連鎖、また時代をこえた文学作品に、伝播するように思いが馳せられる。よいケアも失敗したケアも、何重にもわたる入れ子のように、支え合いのなかで営まれており、そして続いていく。さらには、ケアする側とされる側の立場も入り交る。愛か暴力か、二元論的な判断がつかないような状況がまた幾重にも差し込まれる。そのような交差のなかにみつけることができるのは、かけがえのない、著者と母の物語である。物語とは語り手と受け手の相互行為である。そして優れた物語は、受け手の物語との比較や翻訳を促す。著者らの物語にふれることで、受け手である読者は、自身のなかからも、母や家族の物語、また「わたし」を形成してきたあの日の出来事や言葉をめぐる物語が湧きでてくるのを感じるだろう。  同時に本書は、著者が娘として母と向き合い、母について語る作品でもある。著者が解題を執筆している『女から生まれる』の著者であるアドリエンヌ・リッチは、家父長的な母性の制度のなかで、母と娘は構造的に分断されていることを述べている。経済的自立をはばまれ、家父長的な制度や家族の管理下で母業をせざるを得ない母は、その意味で無力な存在となる。だが哲学者であるサラ・ラディクが述べるように、母業に本質的に要請される目的として、母は子を属するコミュニティや社会に受け入れられるようにしなければならない。つまりそれは、とりわけ娘にとっては、差別的で抑圧的な社会から本来であれば自分を守ってくれるはずの(子にとっては)大きな存在である母が、実は社会的には無力であり、しかも抑圧的な社会に適応するようにしつけてくる、という矛盾の経験となる。子は母を侮蔑する社会のまなざしを内面化し、自立した娘は「母のようにならないこと」を目指さざるを得なくなる。であるからこそ、フェミニストは、このように、娘が、母のひとりの人格としての声をきくということを要請してきた。だが娘が母を語るというのは、重く苦しい歴史を思わせ、沈痛な作業になるというイメージがある。わたしたちはその難しさのまえに立ちすくんでしまう。  ところが、本書は重く沈痛な恨みの物語には感じない。ここで語られる著者と母のパーソナリティがそのような構造を越え出ているという理解もできる。だが、本書が軽やかであるのは、著者が母と「一緒に」母の声をきこうとする過程が描かれているからではないだろうか。第7章ではオープンダイアローグに参加し、母の問題について他の専門家も交えて一緒に考える。介護を通して、母と娘の関係性もまたゆっくりとひらかれていき、新しい物語となっていく。抑圧された娘ではない、従順なケアする娘でもない、ましてや息子のような娘というわけでもない。導きつつも、導かれる、娘による母の語りのもうひとつのあり方であるのかもしれない。(もとはし・りえ=津田塾大学学芸学部国際関係学科専任講師・社会学・ジェンダー論)  ★おがわ・きみよ=上智大学外国語学部教授・ロマン主義文学・医学史。著書に『ケアの倫理とエンパワメント』『ケアする惑星』『翔ぶ女たち』『世界文学をケアで読み解く』『ゴシックと身体』『ケアの物語 フランケンシュタインからはじめる』など。

書籍

書籍名 ゆっくり歩く
ISBN13 9784260062831
ISBN10 4260062832