ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 439
『カイエ』の編集方針とは
JD ロメールが『ガゼット・デュ・シネマ』を創刊したのと同時期に、バザンも、自身のシネクラブや映画批評の延長として、批評誌を創刊しました。それが『カイエ・デュ・シネマ』です。
HK つまり『カイエ』は、元々はシネクラブの会報だったということですか?
JD 完全には会報だとは言えませんが、似たような性格を持っています。『ガゼット』は、シネクラブの延長上にある会報です。しかし『カイエ』は、映画批評誌として創刊されています。バザンは『エクラン・フランセーズ』など当時の有名映画批評誌に、既に寄稿しており、批評家として活躍していました。だから何をすればよいか、ある程度わかっていたのです。さらに彼は、映画に関して、当時の他の批評家とは異なる観点を持っていました。そうした思考を深めるための場として、似通った映画の趣味を持った人々が集まる場所を創ったのです。
HK バザンの活動の場は、パリだけでなく、フランス国内や植民地にまで広がっていたため、より広い読者を相手にしようとしていたのかもしれませんね。
JD それも一つの理由だと考えられます。しかし、いずれにせよ『カイエ』は……私たち若い世代を抜きにしては考えることのできない批評誌です。最初期の『カイエ』は、とても趣味の良い優れた批評誌に仕上がっていました。『ガゼット』は、ロメールが『カイエ』に寄稿するようになったり、彼の私生活の問題もあったりで、四号で休刊になりました。
HK 最初期の『カイエ』は、映画とテレビの批評誌でした。
JD 「テレビ」ではなく「テレビ映画」の批評誌です。当時は「テレシネマ」という呼び方をしていました。つまり、映像全般を扱おうという考えがあったのです。しかし、テレビについては、ほとんど考えが深められることなく、映画へと批評は集中していきました。「テレシネマ」という表記は私が編集に携わった頃には、表紙から自然と消えていきました。テレビについて考察するよりも、「作家主義」などの問題を考えていくことの方が重要になったからです。
つまり、バザンは映画批評の場を生み出し、私たちヌーヴェルヴァーグが「作家主義」を発展させていくことになったのです。『カイエ』に、「十人委員会」が採用されたのも、おおよそ「作家主義」が発展していった過程で生じたことです。「十人委員会」の背景には、シネクラブ時代から続く考えがありました。その考えは、ラングロワやロメールが実践し続けていたものであり、私たちも共有していました。それは、「シネクラブにおいては、ありとあらゆる映画を上映し、観客たちが自分の眼で何が傑作であり、何が傑作でないかを判断できるようにする」という考えです。傑作が何であるかを私たちが押し付けるのではなく、あくまでも観客の側に委ねるということです。私たちは、映画を見せ、その映画について話をする。しかし最終的に、映画自体の良し悪しを判断するのは観客です。映画批評もそうした考えに基づいています。私たちは、私たちが面白いと思ったものや、批判すべきだと考えたものについての記事を書きます。しかし、それを基に映画を見て、最終的な判断を下すのは読者であり観客です。
ですから、そうした編集上の方針を、直接的ではないにしても、読者に伝える必要がありました。私たちの映画批評は、公開される映画の全てを包括するものではありません。映画批評を行うためには、語るべき作品の選択をする必要があります。そこに一つの「映画批評誌」の編集方針も関わってきます。当時の『カイエ』の関心にあったのは、一方では「作家主義」を証明することであり、他方では読者や観客の可能性を奪わないことでした。『カイエ』は、教条主義的であることを好ましいと考えていなかったのです。少なくとも私が編集に関わっていた時代は、そうした方向性を目指していました。私たち編集委員は、それぞれの持つ映画の好みを「十人委員会」を通じて示し、それが『カイエ』の総意として間接的に伝わるようになっていました。
たとえばゴダールが興味を持たない作品があり、私も興味を持たないものがあったかもしれません。その作品は本当に面白くないものだったはずです。反対に、私たちが納得して四つ星を与える作品があれば、傑作だったはずです。場合によっては、意見が分かれることもあります。その作品は、もしかすると何かしら見るところのある作品だったのかもしれません。そんな風にして読者が、見にいく作品を判断できる指標になっていたのです。それが「十人委員会」の真の目的です。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
