2025/06/27号 3面

鎌倉仏教革命

鎌倉仏教革命 橋爪 大三郎著 島田 裕巳  バブル経済が崩壊して以降、日本の仏教信者の数は相当に減っている。葬式の簡略化が進み、葬式仏教に対する需要がなくなってきたことが大きいが、カルチャーセンターでも仏教関係の講座は、少なくとも東京では、相当に減っている。  世界を見回してみても、世界宗教の中で仏教だけが将来において信者を増やすことはないと見込まれている。イスラム教が信者を増やし、キリスト教がグローバルサウスに活路を見出しているのとは対照的である。  そうした時代状況のなかで、橋爪大三郎の新著『鎌倉仏教革命――法然・道元・日蓮』は異彩を放っている。なにしろ、平安時代末期から鎌倉時代にかけて登場した法然、道元、日蓮たちの活動を「革命」としてとらえ直そうと試みているからである。  橋爪は、平安時代までの仏教を「貴族のためのもの」であると位置づける。寺院を建立し、維持するには莫大な費用がかかる。それを支えるのが朝廷や公家が寄進した荘園になるが、荘園で働く農民は、重税を課され、徹底して搾取されていた。  それに対して、鎌倉仏教は、そうした既存の仏教を批判し、原理主義の立場をとった。仏教の教えを、エリート層のものから一般の民衆のものに取り戻し、社会的公正を実現するものへと変革したというのである。  橋爪は、そうした主張を展開する上で、法然の『選択本願念仏集』、道元の『正法眼蔵』、日蓮の『開目抄』や『観心本尊抄』といった著作に着目する。こうした著作は、それぞれ異なる内容を持つものだが、橋爪は、「貧乏主義」、「農民本位」、そして「反平安仏教」という点で共通しているとする。  そのなかで、橋爪は貧乏主義をもっとも重視している。それは、「自分たちは貧乏でよいという覚悟」のことで、立派な伽藍を建てることや、出家修行者の数を増やすことを目的とはしない。逆に、「粗衣粗食に甘んじ、質素なスタイルを貫き、民衆と共に歩もうとする」ものである。  ではなぜ、それが革命なのか。橋爪は、とくにその点については法然の思想を重視している。法然の「念仏宗は、農民を団結させ、連帯をつくりだす。それまでばらばらに、荘園で不本意に働かされていただけだった農民は、念仏を通じて、〈われわれ仲間〉の意識を持つことができた」というのだ。  しかし、こうした鎌倉仏教の貧乏主義にもとづいて、実際に社会革命が起こったわけではない。そこに、ヨーロッパにおける宗教改革との違いがある。宗教改革はヨーロッパを近代化させる決定的な要因となった。  なぜ鎌倉仏教革命は社会革命に結びつかなかったのか。橋爪は2つのことをあげる。1つには、鎌倉仏教が法然、道元、日蓮の三つのグループに分かれてしまい、連帯できなかったこと。もう1つは、宗教が政治に従属したことである。  しかも、旧仏教の側は、「地獄キャンペーン」を展開することで巻き返しをはかった。その際には、中国でできた偽経が巧みに用いられ、地獄に落とされたくなければ、庶民は寺に頼んで葬儀や法事をしてもらうしかなくなった。葬式仏教が、革命的な原理主義に勝利したというわけである。  私は、この橋爪の分析を読んで、それが、橋爪が学生時代に経験した全共闘運動が頓挫した原因を言い当てているように感じた。全共闘運動には、社会的格差への批判があり、それは貧乏主義に通じる。ところが、運動はセクト主義によって分裂し、政治的権力によって結局は封じられてしまった。  本書は、鎌倉仏教を対象とすることによって、日本における革命の不可能性を論じているのではないか。私はそのように感じた。日本社会に潜む根源的な問題を批判しようとするところに、著者の本当の意図があるように思われるのだ。(しまだ・ひろみ=東京通信大学非常勤講師・宗教学)  ★はしづめ・だいさぶろう=東京工業大学名誉教授・理論社会学・宗教社会学。著書に『はじめての構造主義』『世界が分かる宗教社会学入門』『権力』『死の講義』、共著に『ふしぎなキリスト教』『おどろきのウクライナ』『げんきな日本論』『ゆかいな仏教』など。一九四八年生。

書籍

書籍名 鎌倉仏教革命
ISBN13 9784911416006
ISBN10 4911416009