2026/05/01号 5面

言葉に渇く底なし沼

言葉に渇く底なし沼 杉本 真維子著 林 浩平  杉本真維子といえば、わたしには『皆神山』の詩人だ。『現代詩年鑑』から二〇二三年度の収穫を挙げよと依頼された時、真っ先に名前が浮かんだのがこの詩集だった。「いのちの力を刻んだ一冊だ」という言葉も添えておいた。送られた『詩年鑑』の収穫アンケートを見ると、回答者の半数以上がこの詩集を挙げていたと記憶する。朔太郎賞を受賞したのも納得だ。さてその杉本の散文である。「あとがき」によると「本書はいわゆる若書きを集めたものだ」という。H氏賞を受賞して詩壇デビュー間もない二〇〇八年に図書新聞や郷里の長野で発行される信濃毎日新聞に連載したエッセイに始まり、「まなざしのポエジー」と題して日経新聞に寄稿した絵画の鑑賞や東京新聞に連載した詩をめぐる小文、他には受賞スピーチまで収めてある。  『皆神山』ほどの充実した詩の書き手なのだから、散文にあっても自在な筆力を発揮するのは当然だ。文章は、のびやかである。達意の、とも言えよう。ただ、現代の女性の詩人では抜きんでてエッセイの名手だと評価したい、小池昌代や蜂飼耳に比べたら、杉本の散文には色彩感が乏しいようなのだ。言い換えれば、華やぎがない。そこが個性だ、と言えばそうだが、エッセイの文章としてはいささか物足りない。これには、杉本は、小池や蜂飼のようには小説は書かない、ということも関わろうか。しかし、杉本の、そのモノクロの文体だからこそ体現できる特性も確実に認められる。それは、端的にいえば、批評性ということだ。  本書のなかに出色の北村太郎論がある。『冬を追う雨』の一篇「唐招提寺千手観音立像」を論じたくだりだ。「北村太郎の、見る、という態度は、自らの心を実体として欲するまでに苛烈なものなのだ。(略)北村太郎にとって見るとは何か、心とは何かが、哲学的考察で示されている。(略)おそらく北村太郎は、目に見えるということ、そして実体という主題を、そのどちらも持たない詩によって厳密に表記しようとしている。」  パスカル好きを公言し、簡素な言葉を使いながらもその作品には深い思弁性が刻まれていた北村太郎の詩の性質を、見事に語った一節である。さらに面白いのはここだ。「誤解を恐れずにいえば、北村太郎の中には、もう目に見えるものしか信じたくないという叫びがあったのではないか。」 そう、現代詩文庫の『新選北村太郎詩集』の裏表紙に使われたポートレートでこちらを眺める詩人の智慧の目について、わたしは語ったことがある。あの目こそは、なんでも見極め尽くそうという詩人の欲望の象徴だろう。「見ること」の徹底した批評性。わたしが「面白い」というのは、見ることの批評性、見えるものしか信じない、その姿勢というのは、杉本真維子の詩的態度そのままではないか、という点なのである。  「あとがきにかえて」の「詩と現象学のこと」のなかで、杉本は自らを振り返り、「会社をやめて、もういちど大学へ行って、詩と現象学的還元がどのような関係になっているかを追った」と述べている。図書館で出会ったフッサールから「私の求めている詩の書き方はここにある」と直感し、学習院大学の哲学科で学んだという。「詩は、残酷な観察でもある」という言葉も読める。「詩は残酷な観察」、そう、その通り。杉本真維子には、対象を批評的まなざしでもって見ること、哲学の目で見続けることこそが、詩の、そして散文の方法であるのは間違いない。  最後に本書のタイトルに注目しよう。『言葉に渇く底なし沼』という。いま見たように、杉本は、詩は見ることに、観察に始まるといいながら、このタイトルは理知的に収まったものではない。もっと切迫したものだ。杉本真維子にとっては、生きることは見ることであり、そしてそれは常に詩的なるものに向かおうとする大事な運動なのだろう。わたしは先年『全身詩人 吉増剛造』という自著を刊行した。吉増さんをめぐる全身詩人性とは同じではないが、全身詩人ということでは、杉本真維子もまたそうではないだろうか。(はやし・こうへい=詩人・文芸評論家)  ★すぎもと・まいこ=詩人。詩集に『点火期』『袖口の動物』『裾花』『皆神山』『現代詩文庫 杉本真維子詩集』、翻訳に蔡雨杉訳『裾花』(台湾)、散文集に『三日間の石』など。一九七三年生。

書籍

書籍名 言葉に渇く底なし沼
ISBN13 9784901646420
ISBN10 4901646427