<〈不機嫌な時代〉の〈右翼ポピュリズム〉>
苅部直・渡辺靖・板橋拓己 鼎談
「年末回顧総特集号」をお送りします。学術・思想・文学・歴史・芸術など、ジャンルごとに一年を振り返ります。1・2面では、苅部直東京大学教授、渡辺靖慶應義塾大学SFC教授、板橋拓己東京大学教授の三氏に鼎談をお願いしました。(編集部)
苅部 韓国で尹錫悦大統領が非常戒厳宣言を発する事件が起こったのが、昨年十二月。何だかだいぶ前の事件のように感じてしまいますが、先日韓国に行って、向こうの友人からその時の話を聞く機会がありました。大統領自身がクーデターを試みるという、かなり特異な事件ではありましたが、一般にデモクラシー国家が現在抱えている不安定さを象徴するような出来事かもしれませんね。一月に発足した第二次ドナルド・トランプ政権についても、さまざまに議論された年でしたね。
渡辺 トランプ絡みでは二点あります。一点目。トランプ政権になって、司法や市民社会に対する圧力が強まり、さらには軍を乱用するかのような振る舞いも目立っています。民主主義が権威主義に劣化するプロセスが、まさにマニュアルを読んでいるかのように目の前で繰り広げられています。今日、私が特に注目したいのは、トランプ政権による大学への圧力です。とりわけハーバード大学に対する圧力が日本でもよく報じられています。直近のニュースでは、政権との合意間近とも伝えられています。そこではハーバードが五億ドルを拠出し、職業訓練学校を設立支援することが求められているようです。もちろん政権の圧力のかけ方には大いに違和感があります。しかし一方で、職業訓練学校にお金を出すことによって、これまで大学で学ぶ機会のなかった人たちに対しても、大学側に責任を担わせる。そのことを通して社会全体に対する公的責任を果たしていくべきだというメッセージだと解釈すれば、あながち悪い話とは思えません。高等教育、特にエリート大学については、似たもの同士による社会的階層の再生産の場になっていた面があります。高学歴・高収入の親の子弟は塾や習い事、海外体験など「文化資本」を得やすいですから。
二〇一六年にトランプ氏が大統領に当選して以来、リベラルが労働者の側に十分寄り添っていなかったことが指摘されるようにもなりました。大学の果たすべき役割として、自分たちと必ずしも接点が多くない人たちや考え方が異なる人たちに対して、どう間口を広げていくかが、今後大きな課題になる気がしています。総じて大学はリベラル色が強く、保守的な学生にとっては居心地がいい空間ではないとの指摘もあります。
そんなことを考えているときに、苅部さんも寄稿されている『民主主義と東京大学』(宇野重規編、東京大学出版会)を読みました。たとえば、苅部さんが執筆された第二章「大正・昭和のデモクラシー――吉野作造と南原繁」では、次のようなことが論じられています。吉野作造が東大を辞め、朝日新聞に移ったことを契機に拘束される。その吉野を救済しようと立ち上がったのが、同じ東大の同僚だった。吉野とは考え方も違う、いわば保守の人たちが救いの手を差し伸べた。立場や思想・心情は違っても、〝不同意への同意〟を尊重する懐の大きな空間が、あの時代の日本にはあったのだと感銘を受けました。このように、大学の在り方に対して、いろいろ考えさせられた一年でした。今年は石井洋二郎さんの『大学の使命を問う』(藤原書店)も刊行されましたが、アメリカと同様、日本の大学の在り方も問われていると思います。とりわけ、AIが急速に普及する中で、レポート課題をどうすればいいのか、入学試験をどうすればいいのか。そもそも何をもって「優秀」や「努力」と判断するのか。社会全体の中で、判断基準が大きく問われつつある。大学で教える身としては、この問題が、今もずっとくすぶり続けています。
苅部 その本のなかで石井先生は、教養科目を学んだあとに専門を学ぶという順序ではなく、教養教育と専門教育とを相互補完的に平行して行うことを提言しておられますね。そして、汎用的スキルの習得、批判的思考の涵養、市民的倫理観の醸成という三つの要素が教養教育の役割だと指摘しています。『民主主義と東京大学』に書きましたが、戦後に日本の大学が「一般教養科目」を新設したとき、その教育制度を発案したのは、東大総長だった政治哲学者、南原繁でした。そのとき南原は「政治的教養」「普遍的教養」という言葉を使って、批判的思考や市民的倫理観と共通するような内容を考えていた。しかし、東大も含めて全国の大学で実現した「一般教養科目」は、専門教育・職業教育への準備として文系・理系の学問を広く浅く履修するというものにとどまってしまった(詳しくは、二月に水声社から刊行される石井洋二郎・鈴木順子編『リベラルアーツと歴史』に寄稿した拙稿をご参照ください)。
その点をきちんと反省して、大学教育のあり方について、改めてまじめに考える時期が来たように思います。それなのに、世上に展開する大学改革の議論が、お金の話や研究論文数のランキングの話ばかりに終始していて、どういう人材を育てるのかという根本の問題がまったく論じられないのは、一体どういうことなのか。
板橋 アメリカにおける大学と政治の関係を考える際には、イスラエル/パレスチナの問題も関わってくるわけですけれども、この点はドイツでも大きな問題になっています。歴史的経緯もあり、ヨーロッパの中でもドイツが一番大変な状況かもしれません。イスラエルに対する批判をキャンパスですると、反ユダヤ主義だとして、大学当局が取り締まろうとする。ただ、アメリカとは違う点もあります。ドイツの場合、多くの大学が州立で、基本的には公的資金で運営されているんですね。こういう仕組みだと、政治家たちは助成金などをたてに脅しをかけることが可能です。
これは昨年のことですが、ベルリン自由大学でテント抗議をする学生を当局が警察を使って排除し、それに対して複数の教員が抗議声明を出したのですが、その教員たちへの助成金の撤回を連邦研究省が検討していたらしいことが明るみに出ました。アメリカだと寄付金停止の話になるんでしょうけれど、ドイツでは政治家がお金を止める方向に進めていく。これまでドイツの大学は政治からの独立性が高く、自由に議論できるところだというイメージがあったんですが、脆弱な面が露わになってしまった。学費無料が売りでもあるんですが、公的資金に依存していることから、そちら側から圧力がかかれば、黙らされてしまう。大学にお金がないという点では日本と一緒で、その脆さが出た、ここ一年、二年だった気がします。
渡辺 各国の研究者が集まったときに、よく耳にする冗談がありますよね。アメリカの研究者は「テニュアを取るまでの競争が激しすぎる」、イギリスの先生は「給料が安すぎる」、日本の大学の先生は「雑務が多すぎる」と呟かれる(笑)。
苅部 国によってグチのポイントが違う。
渡辺 大学問題を考える際に、国際ランキングについても、もう一度考え直さないといけないと思います。今まさに大学の在り方が問い直されているときに、わざわざ欧米、特に英語圏が有利になりがちなランキングの「良い大学」観に迎合している。その姿勢が本当にいいのかどうか。むしろ自分たちが考える新しい大学観・価値観を打ち出し、それを広めていくべきではないか。いわばランキングを意識している時点で、すでに相手の土俵の上に立たされてしまっているわけです。ランキングが低くなったからといって焦ったり、ランキングを少しでも上げるために英語で論文を発表するよう教員に働きかけたり、というのはそもそも目指す方向が違う気がします。アメリカの大学院で教育を受けた自分が言うのも変ですけど。
苅部 アメリカの大学に関しては、いわゆる一流大学が、富裕層の子弟のための「リベラル」なエリート教育の場になってしまい、そうしたエスタブリッシュメントに対する反感が、ラストベルトの労働者に見られるようなトランプ支持を支えているという問題がありますね。それは大学に対する誤解とも言い切れない。以前にもこの鼎談でとりあげた、マーク・リラ『リベラル再生宣言』が指摘していたことですが、一九九〇年代以降、アメリカの大学でのリベラルアーツ教育がきわめて左よりになってしまい、アイデンティティ・ポリティクスや多文化主義、性の多様性に配慮しない授業を拒否するキャンセル・カルチャーが蔓延している。そのように左傾化した大学教育への反発も、トランプ政権による大学介入を支えている。
渡辺 今のお話とも関係しますけれど、特にアメリカの場合、「経済格差=体験格差」になってしまっている状況をおさえる必要があります。アメリカの大学は、入学テストだけで合否は決まらない。ユニークな体験をしている点も判断材料になります。そのときに、当然ながら、お金持ちの子弟は、小さい頃からいろんな体験ができるわけです。それを入学願書やエッセイに書けば、高い評価が得られる。たとえば小さい頃にルワンダに三年間暮らしていたとか書かれていると、プラス材料に思えてしまう。しかし、それがどこまで本人の実力から生じているものなのか。私の勤めている大学もAО入試を日本で先駆的に行ってきましたが、合格するのは、首都圏の高校出身者が多くなっている印象を受けます。悪しき意味でのアメリカナイゼーションが起きなければいいと思っています。
板橋 AО入試だと、親がどこまで子どもにお金をかけて育ててきたか。それによって得点が高くなってしまうところがありますよね。「親の課金ゲーム」とまでいってしまっては語弊があるかもしれませんが、親の貧富の差が子どもに及ぶ。そうではないかたちに工夫できれば良いのですけど。
苅部 ドイツのような大陸ヨーロッパ諸国では、大学に進む人と、そうでない社会層とが昔からはっきり分かれていましたよね。そうすると、大学は別世界ということで、アメリカのような不満は起こらない気がするんですが。
板橋 それでも、やっぱり大学人に対する反発はあります。ただ、それ自体、大学人自身がやっていたりする。興味深いのは、「ドイツのための選択肢(AfD)」という、いわゆる右翼ポピュリズム政党ないし極右政党があるのですが、AfDの政治家も、けっこう大学卒や博士号持ちが多いんですね。そういう人たちも含めて大学批判をしている。
渡辺 具体的には、どこに批判の根源があるのですか。
板橋 大学人は相対的に移民・難民に対して寛容なので、それに対する反発というのが大きいのですが、それこそ西側のリベラルっぽさみたいなもの全体に対する反発も、確かにあります。大学人が「リベラル」とか「西側」の価値観を体現していて、それに対する反発という構図ですね。ちなみに、旧東ドイツ地域にある大学も、教授は西ドイツ地域出身者だらけです。シュテッフェン・マウ『統一後のドイツ』(白水社)の翻訳が今年出て、旧東ドイツの話を扱っているんですが、本書を読むと、旧東ドイツ市民の人びとがいまも自分たちが二級市民として扱われていると感じていて、その劣等感にAfDがうまくつけこんでいることがわかります。AfDと旧東ドイツの話については、後程詳しく話をしたいと思います。
渡辺 かつて偉大だった祖国があり、往年の繁栄と威厳が失われてしまったことに対する反発という構図ですか。
板橋 ドイツだとナチの過去があるので、“Make Germany Great Again”といってしまっては洒落にならないところがあります。イギリスなどを見ていると、大英帝国の過去に対する憧れみたいなものはあるでしょうね。
渡辺 ドイツだと「ナチスも少しは良いことをした」あたりのナラティブが限界ですかね(笑)。それはともかく、インドのヒンドゥー・ナショナリズムとか、中国における「偉大な中華民族の復興」みたいなもの、あるいはトルコやロシアもそうですが、過去に「偉大な祖国」があった。けれども今、グローバル化、あるいは欧米中心の世界秩序の中で、自分たちの地位が不当に落としめられている、かつての名誉を回復していこう、という、いわば“Make America Grate Again”的精神が世界各地に広がっている。極右ナショナリズムが発言力を強めてきた底流には、そうした感情があると思います。たとえば日本の参政党についても、細かい主義主張まではフォローしていませんが、マインドセットとしては“Make America Grate Again”と非常に似ているし、世論のハートとマインドを勝ち取るための論法や手法も似ている。高市さんが「世界の中で再び輝きを増す日本外交」とかいっているのを見ると、かつて強かった時代への郷愁を確かに感じます。
苅部 日本の場合はやや特異かもしれません。参政党支持者など、「右側」のネット民が郷愁の対象にしているのは、大日本帝国とか明治時代とかではなくて、高度成長期の社会のような気がするんですね。あの時代は豊かだったのに、なぜ今は「失われた三十年」になったのかというような感覚。もちろん、大日本帝国の植民地拡大に対する批判が中国や韓国、さらに日本国内の左派インテリから聞こえることへの反発も、そこには重なっているでしょうが、歴史と戦後の繁栄の記憶とが曖昧に同居している。それが一種の緩衝材として働いているので、ドイツや中国のような、かつての偉大な帝国の復活という主張には結びつかないように思います。本来あったはずの天皇親政に戻せとか、大東亜共栄圏を復活させようとかいった声は、聞きませんよね。
渡辺 この十一月は三島由紀夫没後五〇年でしたが、確かに三島が期待したような天皇を日本の精神的・文化的中心として再定位しようという機運は、今日ほとんど見られませんね。
苅部 『中央公論』十一月号で先崎彰容さんと対談したさい、編集部の方から聞いたのですが、参政党のポスターが載せている歴史上の人物のイラストは、聖徳太子、天武天皇、北条時宗、徳川家康、西郷隆盛と特攻隊員。いちおう天武天皇は入っていますが、明治天皇や昭和天皇が出てこない。天武天皇も律令国家の合理的な国家体制を作りあげた点に注目しているのでしょうから、実はまったく戦後民主主義的な歴史観なんですよね。目指すところは「メイク・ジャパン・グレイト・アゲイン」なんでしょうけど、そのグレイトな日本のイメージの内実は戦後の民主主義と経済成長。おもしろい現象だと思います。
渡辺 ドイツのAfDの場合、さすがにヒトラーを担ぎ出すわけにはいかないでしょうから、どの辺りに遡られるんですか。
板橋 ドイツは、ナチを出した瞬間に刑法犯になりますからね。それでも意図的にナチのスローガンをもじった発言をして、罰金刑を科せられるAfDの政治家もいます。AfD以外には「ライヒスビュルガー(帝国市民)」というグループもあります。三年くらい前にクーデター未遂事件で話題になったテロリストグループで、ドイツ帝国はまだ滅んでおらず、いまの連邦共和国は占領軍が勝手に作った傀儡国家だと主張しています。独自のパスポートを作って、所持したりもしている。ナチには遡れないので、さらに遡ってドイツ帝国を謳っているわけです。ただ、彼らも実際のドイツ帝国についてどこまで知っているか疑問ですし、あまり考えていないと思います。ドイツという国が難しいのは、冷戦期は分断国家だったので、日本と違って、そこにも戻りにくい。その分、ナショナリズムもとても防衛的ですね。参政党もかなり防衛的ですが、ドイツはさらにディフェンシブな気がします。
苅部 渡辺さんの、トランプ関連での二点めはいかがですか。
渡辺 尹錫悦大統領の非常戒厳宣言があった昨年一二月、赤いMAGAハットをかぶった集団が、選挙不正について批判の声を上げていました。完全にアメリカを真似していますよね。参政党もトランプのやり方と似た面があります。トランプの若き盟友で、今年九月に暗殺されたチャーリー・カークを日本に招いたのも参政党でした。先ほどの板橋さんのお話にも繫がりますが、ドイツ、韓国、日本など個々の文脈は異なりますが、現状への不満や犠牲者意識を持っている人たちに対してアピールする手法には、各国共通のテンプレートがあります。国境を超えてナショナリズムが広がり、インターナショナライズしている。第一次トランプ政権下で首席戦略官を務めたスティーブン・バノンが典型ですが、政治コンサルタントとして、アメリカでの成功事例を他国に流布してゆく。過激な考え方が伝播しやすくなっている感じがしています。
苅部 SNSなどでの中傷が、暴力の行使にエスカレートしてしまうのが危険ですね。トランプ大統領の暗殺未遂や、安倍晋三元首相への銃撃という形で現実に起きてしまっている。さまざまな論争が起きるのはいいことなのですが、左右の分極化が暴力行為に結びついてしまうと、デモクラシーにとっては深刻な危機になる。
渡辺 もはや対話は無理、不可能、無意味。ならば実力で相手を押さえつける。アメリカのニュースメディア「ポリティコ」が、最近興味深い世論調査の結果を報じていました。アメリカ人のおよそ二四%が、政治的暴力も時としてやむを得ないと考えている、と。四五歳以下のいわゆるミレニアル/Z世代に限れば、四五%にのぼります。そうした世代の中には熟議に対する絶望感があり、これはかなり危険な傾向だと思いますね。民主党・共和党支持者どちらも似たような数字です。
苅部 その場合の「政治的暴力」には、二〇一一年のウォール街占拠運動のような活動も含まれるのですか。
渡辺 いや、もっと露骨な、議員を襲撃するような実力行使です。
板橋 今年二月には、ドイツで総選挙がありました。私の場合、その時期よりも、実は参院選前後にメディアの方からよく取材を受けたんですね。というのも、やはり参政党とAfDの共通点などをきかれるわけです。参政党はホームページでAfDをかなり詳しく紹介していて、ドイツ在住の女性がAfDの情報を定期的に寄稿している。両政党のあいだに実際の交流もあります。
板橋 渡辺さんがおっしゃったように、AfDと参政党は手法などがよく似ている。文脈は違えど、トランピズムに沿ったような発言もする。DEI(Diversity(多様性)、Equity(公平性)、Inclusion(包括性))には批判的な態度を取っていますし、ドイツでも日本でも、アメリカにおけるアファーマティブ・アクション(積極的格差是正措置)に反対する言論を、そのまま輸入して使っている人たちが結構いる。いまはSNSに投じられた新右翼的な言説がボタンひとつで翻訳できて世界中に広まるので、言葉遣いまで似てきている。ちょっと特異な現象だと思います。世界一の大国アメリカで、トランプみたいな人が大統領に選ばれた。そのことが世界のデモクラシーに強い影響を及ぼしている。過激な言動だとしても、アメリカで許されているのだからいいんだ。そんなふうに思う人が増えている。政治の磁場が随分変わった気がしますね。
苅部 アメリカのトランプ支持者のように、反ワクチン派もAfDには含まれるのでしょうか。
板橋 ええ、多いです。反ワクチン関連でいうと、ドイツでは「Querdenker(違った角度からものを考える人たち)」というグループがいて、コロナ禍の制限に反対する運動を展開していました。コロナから五年経ちますが、ドイツでも日本でも、アメリカでも、あの時代に自分の大切なものを奪われたと考えている人が相当数いて、そういう人たちを中心に組織されている。この人たちが、やはりAfDに投票したりします。
苅部 コロナウイルスの世界的な感染拡大が、極右インターナショナリズムを支えた面があるのかもしれませんね。だから手法も各国で似てくる。『となりの陰謀論』(講談社現代新書)を今年六月に刊行した烏谷正幸さんが、『中央公論』十月号に「参政党躍進の背景を探る――陰謀論はどのように拡散したのか」という論文を書かれています。それによると、陰謀論にとりつかれた人々は昔からいましたが、かつては自民党議員がそういう人々の話を聞いてあげて、暴走しないようになだめながら支持者として確保していた。しかし今では、自民党の政治家も、また既成野党の側もほとんどが高学歴のエリートになってしまい、陰謀論に熱心になるような庶民を馬鹿にして、最初から相手にしない。そのようにエスタブリッシュメントと化した自民党や立憲民主党の政治家に対する失望が、参政党と国民民主党の人気を支えているという分析です。もちろん高市政権の発足ののち、参政党から自民党に支持が戻ってきているような傾向もみられますが、陰謀論にむかってしまう人が抱えている、社会をめぐるもやもやした不安を受け止める回路を、自民党や高市政権が作れるのかどうか。そういう不安の空気は、まだしばらく残るような気がします。
渡辺 陰謀論に関しては、たとえ同意はしなくても、それを信じる人たちの心性は理解した方がいいという意見がありますね、あるいは、たとえばナチズムを支持してる人に対して、なぜそういう考えに至ったかを理解しなければいけないという意見があります。ただ、その場合、どこまで歩み寄って理解すればいいのか。歩み寄ろうとすること自体、実は悪しき意味での文化相対主義、すなわち宥和主義に陥っているかもしれない。やはり駄目なものに対しては断固として拒絶していくこともときには必要かと思います。つまり、これ以上は譲ってはいけないというレッドラインですね。厳しい物言いにはなりますが、どこかで拒絶すべき防衛ラインがある気もします。
苅部 陰謀論の世界観にはまってしまった人に、考え方をまったく変えさせるのはむずかしい。
渡辺 『白人ナショナリズム』(中公新書)を執筆すべく、白人ナショナリストへのインタビューをしているとき、常にそのことを考えていました。陰謀論を信じる人たちとどう向き合えば良いのか。救い出すべきなのか。私が間違っている可能性もゼロではないわけです。当時、心に決めたのは「あなたたちは騙されている」と正面から説得しようとするのは一番駄目だということです。逆に、厳しく反撃される。「そんなことをいっている、お前自身が一番ヤバい」「お前こそメディアリテリシーを高めろ」といった水掛け論になります。私の中でもっとも説得力があると思われたアプローチは、「過去に自分もあなたと同じような考え方を持っていた」「けれども、こういうことがあって変わっていったんだ」ということを丁寧に話しかけていくという、かつての当事者を中心とした働きかけです。カルト系、あるいは暴力的な過激主義からの解脱を支援している人たちが声を揃えていうのは、まさにそうしたアプローチの重要性です。シンパシーやエンパシーを示しながら、相手の誤解をうまく解いていく。もちろん、容易ではありません。
苅部 そこでも、やはり最低限のルールとして、暴力に訴えるのはやめようというコンセンサスを確保するのが大事だと思いますね。
板橋 表向き、あるいは公の空間では、駄目なことは駄目、間違いは間違いだときっぱりと伝えていく、そうした振る舞いが大切だと思います。SNSのような開かれた場では、誤情報・偽情報を正していくことで、陰謀論にどっぷりはまった人は無理でも、その手前でまだ迷っている人を引き寄せることは可能です。一方その裏では、昔の自民党ではないですが、エンパシーを発揮するような人がいて、じっくり話を聞いていく。そういう二段構えが必要な気がしますね。この仕組みをどう組み立てていくか、相当難しいことですが、きちんと考えていかねばならない時期に来ている。
渡辺 最初の話に戻りますが、アメリカでは「大卒」と「非大卒」の距離感が出てきてしまっています。トランプの岩盤支持層の一つは「非大卒」です。その多くは労働者層です。冷戦後のグローバリズムのもと、ITや金融、コンサルティングは大いに成長しましたが、製造業は衰退しました。労働者の窮状に対して、リベラルも冷淡だった。民主党のクリントン大統領でさえ、一九九六年の一般教書演説で「大きな政府の時代は終わった」と宣言しました。労働者層は居場所を失いました。そこに目をつけたのがトランプで労働者層を「忘れられた人々」と呼び、その救済を誓いました。労働者層にすれば、それまでの民主主義は民主的でも何でもなかった。むしろ一部のエリートによる権威主義体制に映っていた。トランプは破壊者ではなく救世主だった。そうした犠牲者意識が蔓延する中、リベラルがいきなり「DEI」とかいっても、反発を招くしかない。「忘れられた人々」から見たアメリカ社会、そして世界を内在的に理解しなければならない。そうした決意で『白人ナショナリズム』を刊行しましたが、朝日新聞の書評は「渡辺は白人ナショナリストに近すぎる」といった粗末な内容でした。
苅部 かつては会社や労働組合や町内会がそういう人たちの愚痴を聞いていたのかもしれませんが、いまはその回路がなくなってしまった。特に、組織化されていない非正規雇用の人や、職場から切り離された高齢者も増えていますから。
渡辺 地域コミュニティも希薄になっていますからね。
苅部 そうすると、ネットに頼って陰謀論にはまる人たちが増えてしまう。そうではない日常的な交流の場を、さまざまな形で作っていくのが大事だと思いますね。決定的なひとつの解決策というものはない。地域の集まりを再建するとか、契約社員として働く人たちが安心して働ける環境を作るとか、いろいろな努力が、社会政策の課題として重要になってくる。
板橋 参政党が今、かつての高度経済成長期に自民党が果たしていたことの代替をしている。これが参政党人気の理由のひとつだと思うんですが、ヨーロッパを見ていても、同じような状況が見られます。旧東ドイツ地域の話になりますが、AfDがもっぱら地域コミュニティをケアしている、そんな村や町があります。もともと一党独裁の社会主義国家だった東ドイツの体制が崩壊したあと、新興政党は根づかなかったし、西側の保守政党や社民政党が旧東側で地域に根差した活動を展開したわけでもなかった。そうした中、極右の人たちがいろいろなかたちで旧東側にネットワークを作っていった。AfD自体は結党から約十年の新しい政党ですが、それを支えるコミュニティは既にできていたわけです。そのことは、最初に挙げた『統一後のドイツ』でも指摘されています。たとえばドイツの地方のコミュニティにおいては、消防団がすごく大切な存在なんですね。日本の消防団より存在感があって、組織率は日本の二倍以上です。特徴としては、若い人たちも比較的参加していることです。そして、そこにAfDの党員が意識的に浸透しているんですね。もうひとつ、日本のPTAにあたる「父母会」の存在も大きい。ここでも頑張って浸透を図る。AfDが地域コミュニティに浸透してくると、表立ってAfDを批判することは難しくなります。結果として今、ドイツでもフランスでも地域コミュニティを極右に握られているところが少なくない。多分、フランスの方が、その傾向が強いと思います。同志社大学の森千香子さんが、かつて指摘されていたことがあります。フランスの農村部の極右支持について、トマ・ピケティは、農村で孤立した人が国民戦線、今の国民連合に投票していると分析していますが、それは間違っている。むしろ農村はコミュニティが濃密で、そのコミュニティを国民連合におさえられているから、ごっそり票を持っていかれている。たとえば地元の催しを国民連合が仕切っている。AfDも今同様のことをしています。旧東ドイツ地域の地方部の催しに足しげく通う政治家には、極右が多い。フランスの地方の農村で極端なところだと、国民連合の支持者でなければ爪弾きにされてしまう。旧東ドイツ地域の状況を見ていても、ちょっと挽回できないんじゃないかと思うぐらい、極右が入りこんでいるところもある。旧東ドイツ地域全体だとAfDは四割近い票を握っています。州によっては、既に第一党がAfDです。これだけ地域コミュニティを握られてしまっては、都市部だけではひっくり返せない。そんな海外の状況を見ていると、日本にも同様のことが起こらないとは限りません。ここは気をつけないといけないと思います。
苅部 昔の自民党が、農協を通じて農村を支持基盤として組織しておさえていたのと、似たような形ですね。社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)がリベラル・デモクラシーを支えるという議論が、かつて比較政治研究では盛んでしたが、ドイツでも日本でも、保守的ナショナリストの土台になっている。
板橋 まさにそうなんです。ナチ研究でも似たような議論が昔からあります。有名なエーリヒ・フロムの『自由からの逃走』は、近代が伝統社会を壊していった結果として、一種のアノミーに陥った人たちがナチに向かったという見立てです。ただ、最近の研究では、そうした見方が否定されつつあります。ワイマール・ドイツには、緊密な市民社会があった。クラブや自発的結社が数多くあり、そうした組織を中心にして、人と人が繫がっていた。ヨーロッパでは、歴史的に体操団体や合唱団がナショナリズムの浸透についても重要な役割を担っています。そういったグループが強いところほど、何かをきっかけとして、ナチに一気にいかれちゃうところがあった。苅部さんがいわれましたが、ソーシャル・キャピタルが厚いところの方がデモクラシーは機能すると政治学者のロバート・パットナムたちは論じていたと思いますが、そうではない現実を、今我々は見せつけられているんじゃないか。
板橋 パットナムは自発的結社が民主主義の成功をもたらすとして北イタリアを例に挙げていますが、政治史研究者からは、当該地域はファシズムも強かったと指摘されています。現代においても、孤独で行き場のない人がSNSのエコーチェンバーのなかに閉じこもってAfDに票を入れているという面も確かにあると思いますが、それだけでは決して説明できない面があります。
渡辺 今年、NHKスペシャルで「新ジャポニズム」という連続企画を放映していたのですが、素晴らしかったです。それを元にした本が最近刊行されました(『世界はなぜ日本カルチャーに熱狂するのか』NHK出版)。単にマンガやJ-POPが流行っているという話ではなく、より深い考察を加えています。刊行後に放映された「盆踊り」を取り上げた回によると、ブラジルでも盆踊りが広がっているようです。ただ、ブラジルにはサンバがあります。でも、サンバというのは、パッと集まって踊って終わり。かたや、盆踊りでは、当日に向けて地域で練習を丹念に積み重ねていく。日系ブラジル人だけではなく、それ以外の人たちも多く加わっている。盆踊りはいわばコミュニティ・ビルディングのツールになっている。『世界はなぜ日本カルチャーに熱狂するのか』では、J-POPを代表するひとつとして、ボーカロイドについても紹介していました。日本にいると気づきませんが、海外では凄まじい人気です。なぜか。声はコンピューターを通しているし、歌い手は顔すら見せない。つまり、非常に匿名性が高く、個性を感じさせない。つまり、インド人であろうとブラジル人であろうと、自分の境遇と合わせやすい。そうした特性は偶然ではなく、日本文化の中に元々あった。たとえば日本の能は、能面を付けて、あえて表情を見えないようにしている。演じ手の感情などは見る側が想像し、その気持ちを補っていく。そうした「余白の文化」が、昔から日本にはあった。なかなか深い洞察で、かつてレヴィ=ストロースも、日本文化の特性は余白性にあると指摘していました。短歌にしても、思いのすべてをいわない。余韻をもってコミュニケーションする。欧米的な、常にデータや論理をもって相手を説得していく仕方とは、まったく別のコミュニケーション体系を、日本人は作ってきた。果たしてどこまで「日本的」なのかという議論はあるかと思いますが、ここでの私のポイントはそこではありません。冒頭の話に戻るのですが、大学を含めた高等教育、価値判断のあり方にしても、欧米のモデルと競い合う必要もないし、何か違った代替案を模索しても良いのではないか。そうしたことを考えた一年でした。
苅部 日中関係のこととは関係ないですが、ある種の「戦略的曖昧さ」ですね。日本政治について言えば、自民党と公明党の連立解消ということが起きました。両党ともこれまでの支持層が弱体化して、じり貧状態になっている。自民党にとって、公明党の支持者による集票効果はもう期待できないし、公明党の側も、連立政権にとどまると、小選挙区で議席をとれる見込みがますます低下してしまう。それで連立解消となったわけですが、自民党を中心にした弱体政権がしばらくは続くことになります。『参議院による多元的民意の反映』(東京大学出版会、二月刊)を出された高宮秀典さんが、『世界』十二月号に「野党多弱はなぜ止められないか─参議院という構造的要因」という論文を寄稿しています。参議院には比例区があり、選挙区の方も一人区以外は中選挙区制ですから、システム的に小党分立になりやすい。したがって自民党がいったん弱くなると、参議院では多数を取れない状態が長く続くことになり、小政党の分立が常態になって、政治の不安定が続きます。それが極右・極左政党の台頭を招いて、政治の分極化を進めてしまうことを高宮さんは憂慮されていますが、同感ですね。いま、衆議院選挙を中選挙区制に戻そうという声が政界で上がっていますが、慎重に考えた方がいいでしょうね。中選挙区制にすると、一つの党が安定多数を取るのが難しくなり、連立政権を組む必要がありますが、その後も連立による組み合わせを変える形での政権交代が続くことになるでしょう。それで政治の安定を保てるかどうか。
渡辺 中選挙区制の弊害を克服するために小選挙区制にしたんだけれど、そっちもうまくいかないから元に戻すというわけですね。
苅部 小選挙区制にしたのにもかかわらず、政権交代があまり起こっていないことを考えれば、中選挙区制復活論にも理がないわけではない。しかし五五年体制の時代のように、自民党が実質的な派閥連合政党の形をとっていれば、中選挙区制にも適合して安定した与党になれる可能性はありますが、今後、自民党がもっと小さくなってしまえば、単なる小党分立の状態に陥ることになる。
渡辺 そうなったとき、たとえば参政党の存在感がますます増してくる可能性もあります。参政党に関しては、アメリカでは「トランピズムの日本版」みたいなかたちで報道されることがあるのですが、ドイツではどう報じられているのでしょうか。
板橋 元々日本に関するニュースが少ないこともありますが、まだそれほど詳しく報じられてはいません。ただ、二〇一〇年代によくいわれていたのは、なぜ日本には右翼ポピュリズム政党がないのかということでした。ヨーロッパの人たちの感覚だと、そう考えるのでしょう。現在のヨーロッパでの報じられ方を見ていると、ようやく日本も我々と似たような状況になったという議論はありますね。それを「日本版トラピズム」と呼んでいるかまではわかりません。
苅部さんの話を受けると、多くの国が比例代表制をとる大陸ヨーロッパでは、もともと第一党が過半数を取れないのが通常で、連立政権が前提です。そういう政治状況を見てきた研究者として、何がいえるのか。日本においても、連立の作法みたいなものを再考してみる余地がある。連立協定書を作るなり、選挙前から協議をするなり、連立のし方は様々です。ドイツであれば、基本的には組む相手を決めずに選挙戦に臨んで、選挙後に交渉して連立を組む。これが日本の政治制度に合うかどうかは別として、そういうことを考えてもいい。今回の自民と維新の連立協定にしても、閣外協力ですから、ヨーロッパの基準では連立政権とはいいません。閣外協力のあり方も、ヨーロッパではさまざまです。方向性はいろいろ考えられると思います。
苅部 日本の場合、これまで三十年間、奇妙な形で自公連立が安定して続いていた。自民党は公明党の社会福祉政策を認める。その代わりに、安全保障問題については妥協してもらう。そういう取引関係がはっきりしていましたから、連立協定を結ばずとも、政治家どうしのパイプで連立が続いていた。しかし今回の自民党と維新との連立では、そういう曖昧な関係はとれず、方針を協定などではっきりさせる必要があります。板橋さんのおっしゃるように、新しい連立の作法ができていくかどうか。これまでは保守と革新が、安全保障問題、護憲か改憲かという論点でわかりやすく分かれていた。しかし現在では、護憲一辺倒の人は有権者の一割ていどでしょう。そういう場合に、どういう争点をとりあげて国民にアピールすればいいのかについて、多くの政党がはっきりした指針をもっていないように思います。参政党にしても、そうした点に関して明確なことは言っていない。さしあたり成立した自民と維新の連立に対して、野党がいかなる争点をとりあげて、連携して対抗していくのか。連立政権の組み合わせの変化もありうるでしょうね。
板橋 今申し上げたように、大陸ヨーロッパでは連立政権が常態で、しかも選挙後に、有権者の意図しない組み合わせで連立が成立することもあります。選挙だけではデモクラシーは終わらない。連立政権を組むときにも、どこを妥協してどこを押し通すか、複雑な交渉をしていく。それを見ながら、有権者も勉強していく。そういう考え方に、我々も慣れていかなければいけない。
渡辺 先進国全体で近年、与党に対する逆風が吹き、少数政党乱立の状況が起こった。その結果、どこも連立政権を模索するようになった。流れとしてはよく理解できます。そうした現状に関して、今のインフレが関係しているのかどうか。先ほどコロナの話がありました。各国が経済活動を支えるために金融緩和や財政出動した。その結果、インフレが収まらなくなり、与党に対する不満が溜まっていった。そうすると根本にあるのはインフレ、あるいは格差拡大なのでしょうか。
板橋 インフレや格差拡大ももちろんあると思います。ただヨーロッパに関しては、経済軸だけではなく社会文化軸もすごく大きな要因になっていますよね。EUの存在も大きい。たとえばEUは共通の環境規制を押し付けてくる。あるいは、EUは域内の人の移動の自由を課しますから、移民がどんどん入ってくる。そのEUを支えてきた既成政党に対する反発もある。格差だけでは説明しきれない、社会文化軸も大きく関係しているんじゃないかと思います。
渡辺 全く同感です。アメリカのトランピズムにしても、経済的な面からだけでは説明できません。「アメリカ文化」が壊されつつあることへの危機感、つまり社会文化的な側面が背景にあります。それがトランプ政権を支える源泉になっている。日本もアメリカもヨーロッパも、ますます不機嫌な時代に入り込んでいる印象を強くした一年でした。(おわり)
★かるべ・ただし=東京大学教授・日本政治思想史。著書に『小林秀雄の謎を解く』など。一九六五年生。
★わたなべ・やすし=慶應義塾大学SFC教授・文化人類学。著書に『白人ナショナリズム』など。一九六七年生。
★いたばし・たくみ=東京大学教授・国際政治史。著書に『分断の克服1989―1990』など。一九七八年生。
