2026/04/17号 6面

ある言語学者の事件簿

ある言語学者の事件簿 谷口 ジョイ著 北村 匡平  本書は、言語学者による言語学入門ではまったくない。むしろこれは、一人の言語学者がどれほど波瀾万丈な道のりをくぐり抜け、どれほど慌ただしく、騒がしく、そして可笑しい日常を生きてきたのかを綴った、自伝的エッセイである。  著者は父がアメリカ人、母が日本人。旧姓は「ワトソン」だが、日本人男性と結婚して「谷口ジョイ」になった。あまりによくできた名前なのでペンネームかと思っていたら、れっきとした実名らしい。しかも夫からは「ワトソン正昭」だけは勘弁してほしいと懇願されたという。この時点ですでに、かなり面白い。  母の遺伝子が外見にはほとんど現れず、自ら「いかにも外国人」という風貌を背負って生きてきたという著者は、幼い頃には数学少女だった。「この顔で英語を教えてもおもしろくないが、数学を教えたら万人にウケるのではないか」という、なんとも軽やかな動機で大学では数学を専攻したというのだから、最初からただ者ではない。その彼女が、いかに言語学者になっていったのか。本書では、その紆余曲折だらけの過程が、肩の力の抜けた筆致で語られていく。  本書の面白さの一つは、静岡の大学で働きながら方言を調査し、研究し、教える言語学者の日々が、実に軽妙なタッチで描かれている点にある。文系研究者の日常といえば、静かな書斎で資料を読んでいる姿を思い浮かべる人も多いかもしれない。だが、ここにいるのは、そんな優雅なイメージを片っ端から裏切っていく研究者だ。しかも不測の事態に巻き込まれる頻度が異様に高い。いや、巻き込まれるというより、しばしば自ら呼び込んでいるようにも見える。  たとえば、小学三年生の図工の時間、彫刻刀の操作を誤って親指の肉を半分ほど隣の机の上まで飛ばしてしまったという、ほとんどホラー映画のような話。あるいは、外国人風の見た目をした著者が車内で井川方言の音声を流していたところ、警察に職務質問されてしまった話。ページをめくるたびに、「そんなことある?」といいたくなるエピソードが飛び出してきて、ぐいぐい読まされる。  著者の人生をここまで面白くしているのは、やはり桁外れの好奇心と行動力だろう。日本語教師の資格を取るために専門学校へ通い、言語学の授業を聴講し、ブラジルの日系社会に興味をもつや、アルバイト代を貯めてアマゾン奥地の日本人移住地にホームステイしてしまう。思い立ったら、考えるより先に体が動いている。そうとしか思えない。  「こんにちは」と「ありがとうございます」以外の韓国語を知らないまま、女子大学で日本語を教えるためにソウルへ飛び込んでしまうところも想像を絶する。当時は英語もほとんど通じなかった韓国社会で、薬局で小さなバンドエイドを買おうとしたはずが、必死の身ぶり手ぶりの末に、店員に「五センチのパンティ」を求めてしまう。爆笑せずに読めない。  小さな子供を育てながら、静岡から東京大学大学院へ新幹線通学することになったときの「おっぱい問題」も強烈だ。授乳しない時間が続けば乳房は張り、痛みをやわらげるには数時間おきに搾乳しなければならない。しかし、その場所がない。やむなく人目につきにくいトイレを〝搾乳処理場〟と位置づけるのだが、新幹線のトイレで鍵をかけ忘れ、搾乳中の姿をスーツ姿の男性に見せつけてしまう。このあたりの悲喜劇は抜群で、挿入されるイラストのタイミングも絶妙だ。さらに著者自身の注にあるツッコミや補足説明がいちいち冴えていて、そこも見逃せない。  理性や思考よりも先に、まず身体が動く。そう言ってしまっていいだろう。とにかく、よくもまあこれほど行き当たりばったりに、それでいて前へ進み続けられるものだと感心する。評者もかなり成り行きで人生を迂回してきたほうだと思っていたが、上には上がいる。そんな競争をしても仕方がないのだが、ともかくすごい。ここまで読めば、タイトルにある「事件簿」が何を意味するかは明らかだろう。  もちろん、本書の魅力は、ただ笑えることだけではない。著者の直感的で大胆な行動は、コスパやタイパが重んじられるいまの時代から見れば、しばしば「無駄」と呼ばれてしまう種類のものだろう。けれども著者は、これまで生きてきた半世紀を振り返って、「無駄なことなど何もなかった」と言う。その言葉には、不器用でも、遠回りでも、とにかく動いてきた人だけが持てる説得力がある。次々に事件に遭遇する本人は大変だろうが、読んでいるこちらは、そのすべてが唯一無二の人生の厚みになっていることを確信する。  この本がありふれた研究者エッセイと一線を画しているのは、研究者の日常を、単なる苦労話でも成功譚でもなく、ユーモアとペーソスあふれる筆致で生き生きと描いているところにある。ページを追ううちに、読者は「言語学者」に出会うというより、まずこのあまりに魅力的な人物そのものに惹きつけられていくだろう。どこか昭和の喜劇映画を思わせる、少し騒々しくて、でも最後にはしみじみとした温かさが残る味わい。本書には、そんな愛すべき体温が宿っている。(きたむら・きょうへい=東京科学大学リベラルアーツ研究教育院教授・映画研究者・批評家・随筆家)  ★たにぐち・じょい=静岡理工科大学情報学部教授・社会言語学。著書に“Biliteracy in Young Japanese Siblings”など。米国出身。

書籍

書籍名 ある言語学者の事件簿
ISBN13 9784801110281
ISBN10 4801110282