2026/01/09号 3面

論潮・1月(高原太一)

論潮 1月 高原太一  こんにちは。今回から一年間、この欄を担当します、高原太一です。論壇誌と呼ばれる五つ(『現代思想』、『思想』、『文藝春秋』、『中央公論』、『世界』)を中心に、いまについて語っていくのが、私の役割です。なぜ、私が?という疑問への答えは、皆さんはもちろん、筆者にも分かりかねます。そもそも、私は、これら論壇誌の良き読者ではなかったからです。今回、はじめて同時代的に、五つを読んでみました。私にとって、とりわけ『世界』や『現代思想』は、ある時代の雰囲気や書き手たちの系統を示すものとして、事後的に、つまりは歴史書として読んできました。『現代思想』ならば、私が小学生の頃の九〇年代って、どんなことがテーマで、どんな人たちが書いてきたんだろうかと。『世界』ならば、私が専門とする一九五〇年代(砂川闘争の時代)には、どんな雑誌として機能していたのだろうかと。そんな時代のアーカイブとして捉えてきた私にとって、同時代的に読んでいくのは、ちょっと大変そうだなというのが正直な第一印象でした。だいたい特集タイトルからして、「排外主義の時代」(『現代思想』)、「高市総理の対中戦略」(『文藝春秋』)、「それでも人間を信じる」(『世界』)といった調子で、非常に不穏というか、暗い。ページを捲ってみても、出来事や現象に対する専門家の解説はたくさん載っているけれども、私が論壇という言葉で想像していたものとは、ちょっと違う。そこからふと思考が立ち昇るような、あるいはそれを読むことで、書き手と秘かな連帯感を結べるような、そんな文章がたくさん載っているのが論壇誌だと勝手に夢想していたのです。  でも、食わず嫌いならぬ読まず嫌いは、よくない。と信じて、もう一度、読めるところから読んでいこう。気持ちが乗らない文章は、心のなかで「ごめん」をして読み飛ばそうと思います。そうすると、少なくとも、一誌に一つは、好きな文章に出合えました。それらはいま私が考えたい、書くや読む、あるいは考える、話すことの基本的な条件について、書き手が悩み、その地点から書きはじめられたものでした。それでは、一緒に、私のささやかな読みを共有したいと思います。  まず、私が手に取ったのが『現代思想』です。その理由は単純で、一番読み慣れているから。しかし、特集が「排外主義の時代」とあっては、少しノリが違うぞと覚悟しました。気分としては、社会科学的に分析されたものよりも、文学的な(という言葉が適切かは分かりませんが、正面突破ではない書きぶりの)文章が読みたい。すると、渡邉悟史さんの「排外主義と外来種」が、その希望にピッタリマッチしました。なんといっても、第一節のタイトルが「アメリカザリガニに会いに行く」です。しかも、その節の最後は、こんな文章でキメられています。「この小文が最終的に向かいたい主題は、いまザリガニの死体は私たちに何をさせようとしているのかということである。それはザリガニの死体について考えることの難しさを考えることでもあるだろう」(一二八頁)。ここからアメリカザリガニという「外来種」と排外主義との関係性が考察されていきます。  こんな感じで、雑誌の紙面を漁っていくと、私好みの文章に出合う、出合う。『世界』の場合は、朱喜哲さんの「いまこそ〈マジョリティの哲学〉を構想する」です。これも第一節のタイトルに惹かれました。「混沌の時代に哲学書を開くこと」。そう、そのことを教えて欲しい! ここでも、非常に文学的な言葉が出てきます。「そんなとき、哲学書を読んでいるとひとときの安らぎを感じる」(八三頁)。その経験は、私にはまだないですが、どんな哲学書かといえば、ローティとドゥルーズの二人の書。両者は同時代人であるとともに、「〈マジョリティ〉性の権威がまずあるということからはじめなければならないという点で一致していた」(九〇頁)というところが肝です。私たちは「インターネットにアクセスさえできれば誰もがみずからの発言を世界に向けておこなうことができる」(八四頁)時代である、というのが、私たちが生きる世界の条件と記されていますが、はたしてそうなのか。  そんな普段は考えもしない違和感をもたらしてくれたのが、『文藝春秋』SDGsエッセイ大賞優秀賞に選出されたhidemi(新井秀美)さんの「積極的に語らないが、誰でも語れる環境がある社会」です。ここでは、行政書士の仕事をしている新井さんに相談を持ち掛けてきた、ある「ご高齢の韓国人」の話が出てきます。新井さんが書類を郵送して欲しいといっても「コンビニからFAXがいい」といわれ、またサインが必要だとお願いしても「字が汚いので書いてください」と代筆を頼まれる。その姿から、新井さんは「この方はおそらく字の読み書きができないことを隠しているのだと気づいた」と述べます。ここで、ふと思い出したのが、長年アルバイトをしていた個別指導塾でのこと。あるとき、六〇代の塾長よりもさらに年配の男性が、生徒として入ってきました。若いころに集団就職で東京に出て来たそうで、いまから勉強をして高校受験をしたいという希望。私の担当ではなかったのですが、英語はもちろん、読み書きもそこまで得意ではない人にはじめて出会いました。そのとき、私たちは十分に親切だっただろうかと反省します。結局、二ヶ月ほどで塾を辞めてしまったからです。  話が雑誌からズレてしまいました。『世界』の特集は「ミシェル・ド・セルトー」です。セルトーは一九二五年生まれ。ちなみにドゥルーズも、同い年です。昨年二〇二五年は「昭和一〇〇年」といわれましたが、百年前の一九二五年は大正一四年、色川大吉が生まれた年です。その色川とセルトーが同時代の精神を共有しているのだと強く感じさせられたのが、カルロス・アルバレスさんの「ミシェル・ド・セルトー 歴史記述、革命、神学」です。その箇所を全部引き写すことは、ここでは叶いませんが、一八五頁にある脚注一三をみれば、明らかです。「火山から流れ出る溶岩のように、隠蔽され抑圧された領域が革命の力によって地表に姿をあらわす」(一六八頁)とセルトーの「地下の異他なる領域」を言いなおすアルバレスさんも、訳者の福井有人さんも、独特な熱を帯びた筆致で、難解なセルトーを生々しい形で蘇らせていきます。  最後に取り上げるのが、『中央公論』の「クマと日本人」。著者の増田隆一さんのクマへの思いが滲み出た論考です。その最後の節「共生の文化を再考する」で、増田さんは格言的にこう書きます。「クマは避けてくれる。私たちが気づかなくとも、クマは、常に私たちを見ている」(一七五頁)。この文学的な表現も、また、私たちの生を取り巻く条件について、鋭く問うものでした。それでは一年、共に生きていきましょう!  ★たかはら・たいち=一九八九年、神奈川県生まれ。趣味は街歩きと水球。好きな作品は永井龍男、吉行淳之介、井伏鱒二のエッセイ集。専門は、砂川闘争を中心とする戦後民衆運動史。成城大学グローカル研究センターPD研究員/大学非常勤講師。著書に『砂川闘争とは何か 連帯の民衆史』(法政大学出版局)。