2025/04/04号 5面

アナイス・ニン文学への視点

アナイス・ニン文学への視点 山本 豊子編 松尾 真由美  ずっと待っていた。好きな作家が一面的にしか受け止められていないという、そのどうしようもなさを長い間どうすることもできなかった。作家自身が持っている多様性や作品の難解性が許容されず、日本における作家アナイス・ニン像の浮薄さは、一部の日記と一部の人間関係だけのアメリカの作家としてこの国には周知されてしまっていた。しかし、ついにその問題が解消されるときがきた。本邦初の山本豊子編『アナイス・ニン文学への視点 小説と日記、作家と創意』は二十一世紀におけるアナイス・ニン研究の基盤と銘打たれるようにさまざまなアナイス・ニン論の集大成であり、一作家の複雑性を多方面から論じることでその文学の魅力を引きだし、またその文学から芸術家の在り方(ニンの場合、女性の生き方にも通じていく)への探求も意味することで、一筋縄ではいかない生きることと書くこととの関わりが表明される厳しさもある。それはアナイス・ニン自身が何に対しても探求の手を緩めないことに起因するのかもしれない。たとえば、ニンの日記は有名だが、この日記も通念的なものではなく「彼女は熱心な読者であり敬愛していたプルースト同様、人生経験をフィクションに変容させようとし、ときには、実写主義者たちであれば虚偽と呼びかねない、より大きな真実と思われる高みまで昇華させた」(スザンヌ・ナルバンチャン「審美的な嘘」)と日記を書くことで真実の方向に導かれるニンの作家性を浮き彫りにする。そして、書くことで真実を探る所作は詩人の所作そのものであり、詩人の私はアナイス・ニンが自然体で詩に接近したように感じてもいるのだ。なぜなら、意識せざるものとしての真実へと向かう越境感覚には超現実が含まれているからだ。「ニンは、知的形成の初期にランボーを読んだ(略)パリの日記はランボーへの言及であふれている。ニンは彼を幻視者として思い描き、自分自身を「ランボーの根源的なイノセンス、ある種の純潔」を持つ同族の魂と考えている(略)彼女はランボーとアンドレ・ブルトンに表現の超越を見出し、自分自身を彼らと結びつけた」(アンナ・バラキアン「詩人、アナイス・ニン」)とパターン化された理性から逃れるための方途として有効な詩行為を吸収し、ニンは作品を豊かなものにしたのはいうまでもないのだが、散文としての難解さもこうして醸成されていく。詩と小説の同時的越境性の産物がニンの小説である。  だが、小説で語られる人物たちは生き生きとしていて、散文としての難解さが人物描写を空疎にしてはいない。モデルがあることの強みであろう、自分をも分割して主人公を創出するニンは実感と想像を絡ませつつ世界を構築する。ゆえに現実に出会う人々もニンにとって重要だった。ブルトン、アルトー、ヘンリー・ミラーとジューン・ミラー、ゴンザロ・モレやロレンス・ダレルはニンの芸術に刺激を与え、ルネ・アランディとオットー・ランクは精神分析学を通じてニンの小説を助ける。ニンは大勢の芸術家と出会っているが、本書で注目したのがサルバドール・ダリとニンの関係である。ルッケル瀬本阿矢の論考では両者ともに小児期のトラウマ体験が作品に影響を及ぼし、類似したパーソナリティ障害を抱える者同士だからこそ通じ合うものがあったという。カタルーニャ州という出発点、芸術に理解ある両親のもとで育ち、しかし、虐待を受けた子供たちであった二人が、ストレスに対処する手段を己で選び取り、芸術に転換させることに成功した。そこにシュルレアリスム運動があり、内面世界を自由に旅する方法を会得する。五つの長編を連作小説『内面の都市』とし、モチーフを繫げることで浮かび上がる主題的な連続性という発想も自由に旅する内面の表出である。最晩年の『コラージュ』はアイロニックなユーモアを湛えつつ、絵画的手法で小説を終わりのない円環へ変換させ、物語の躍動感をいつまでも持続させる。本書は目次を読むだけでニンの特質を伝えてくれる。親日家だったアナイス・ニン。江藤淳と大江健三郎との座談会はニンを身近に感じさせてくれた。(まつお・まゆみ=詩人)  ★やまもと・とよこ=東京女子大学非常勤講師・アメリカ文学。訳書にアナイス・ニン『四分室のある心臓』など。

書籍

書籍名 アナイス・ニン文学への視点
ISBN13 9784384060805
ISBN10 4384060807