ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 411
「デジタル映像とは何か」を考える
JD アルノー・デプレシャンの最近の数本は、手紙などを演出に用いることで、時間的・空間的な表現をしようとする試みもありました。以前のものと物語自体、それほど変わっていません。いつも通り家族問題に関わる苛立ちや姉との確執など、彼の身近な生活が反映されたものになっています。決して悪いものではありません。以前の作品を違った角度から描き直したようなもので、自身の映画を作り続けている。しかしながら、確かに映画の作り自体は、全体的に平坦なものになっています。それはデプレシャンの問題ではなく、現在のフランスの映画作りの問題なのです。デプレシャンは、自身のやるべきことをやれる範囲で行なっている。しかし、今日の撮影スタッフやプロデューサーたちは、本当に頭が硬い。映画学校で教わったことを忠実に守り、撮影を行うだけなのです。その結果として生み出される映像は、実に単調で面白みのないものになってしまっています。
HK デジタルカメラで撮影するようになって以後、映画の世界全体から緊張感が薄れていますね。
JD 完全に薄れているわけでもありません。ソクーロフの『エルミタージュ幻想』はデジタルカメラで撮影されていますが、最初から最後まで演出が隅々までなされています。映画全体をワンショットで撮影するので、誰一人として失敗することができないからです。ゴダールも、デジタル映像に移行してからも、以前と同様に映画を〈創り〉続けている。つまり映画を発展させ続けているということです。だから、デジタル映像自体が悪いわけではありません。しかし「デジタル映像とは何か」を考え、映画がデジタル化したことで何ができるようになったのかを考える人はほとんどいません。「映画とは何か」を考える人が減ってしまったのです。多くの人は、デジタル映像を以前のフィルムの安価な置き換え品のようにして考えているだけです。フィルムの場合、撮影の失敗が製作費に直接繫がりますが、デジタルカメラに関しては、いくらでも失敗が許される記録装置という程度にしか考えていません。このままでは、過去の映画を惰性の中で作りつづけるだけです。
ヌーヴェルヴァーグの時代にも同様にして、惰性や流行りで映画を作る人がいました。私たちが、手持ちの安価なカメラを使って、実際の街路で映画を作った後には、大手のスタジオもこぞって真似をしました。そうやって何も考えずに模倣して作られた映画は、決して面白いものではなかった。ただ単に流行りの安価な手段として、映画を作ることになっただけだったからです。
今日の映画にもまだまだ可能性は残されています。映画作家は、本来であれば、その可能性に関しても考えを巡らせるべきです。デプレシャンを例にすると、彼は映画の作りが変わった後も、フィルムの時代と同じ映画を作っている一面があります。しかし、近いうちに、彼も必要に迫られ、映画の作りを変えていくことになるはずです。
HK 映画が集団的試みであること、そして「作家主義」の問題とも関わりますが、今日の映画のスタッフに関して、どの程度まで「作家」的個性を持った人がいるのか疑問です。少し前までは、カメラマンに関しては、非常に強い個性を持った人たちがたくさんいました。ヴィットリオ・ストラーロ、カルロ・ディ・パルマ、レナート・ベルタ、ウィリアム・リュプチャンスキー、ブリュノ・ニュイッテンといったカメラマンが撮影した映像は、一目見れば誰が撮影監督だったのかがわかります。映像編集者に関しても、デュラスやトリュフォーの編集者は、彼らが編集に携わっているとわかるような個性がありました。
JD そう思います。しっかりとした撮影スタッフは、それぞれが考えを持っているからです。彼らのようにして、映画の中に自分の存在を署名することができた人々は、真のプロフェッショナルたちです。
一昔前の話ですが――つまりフィルムの時代の話ですが――映画は今のようにして、カメラの録画ボタンを押せば誰もが簡単に撮影できるものではなかった。映画の作家である映画監督も、自分の手で映像を撮影することはできませんでした。
〈次号へつづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
