2026/01/09号 5面

地下鉄駅

地下鉄駅 何致和著 川崎 祐 きりきりと胃が痛む。何があったというわけではない。かつてほど酒は飲んでいない。煙草もだいぶ前に止めた。規則正しいとは言わないまでもここ数年は以前に比べればずいぶん健康的な生活を送っている。仕事、家庭の問題、親の老い。もっと若い頃であれば解決策があると信じて突っ走っていたかもしれない。しかし日常に生じるありきたりな悩みに特効薬がないことなど疾うの昔に知っている。それでも最善と思われる策を取る。徒労に終わることは承知の上で。それが中年を生きる心がけだ。鈍い痛みを心身のあちこちに忍ばせながら可能な限り前向きさを装って生きる。だから、鈍い小説が、燻んだ小説が私は読みたい。  『地下鉄駅』は敗者を描いている。梗概を記せばこうなる。主人公の葉育安は地下鉄会社の運行管理課の主任をしている。ある日会社から投身自殺の防止策を講じることを求められる。抜本的な解決のためにはホームドアの設置が不可欠だがそれが実現するのは先だ。会社が求めるのは世間からの批判をかわすための見せかけの対策である。だが彼はこのプロジェクトに熱心に取り組む。それでも自殺は起こる。いつしか彼は奇策に走るようになり、失笑を買う。たしかに彼が打ち出す奇策は可笑しい。しかしそれは本当に嗤うことなのか? 主人公が打ち出す奇策が風水の活用や僧侶の配置にまで及ぶ終盤はスラップスティック・コメディの様相を呈している。さらにその原因を生んだ張本人は歳の離れた部下への実らぬ恋にのめり込んでいるから手に負えない。しかし彼が生きる日常の様子を具に観察すればそれも仕方のないことだと思う。彼は娘と母親の三人で暮らしているが、母親は認知症を患っており改善の見込みはない。娘はうまくいかない恋愛の苛立ちを家庭に持ち込む。彼の家庭生活は破綻寸前のところで持ち堪えている。一方、運行管理課の主任として彼は日々礫死体を目の当たりにしている。「麻痺というのは感情がなくなることだが、人間がどうしてこんな光景を目の当たりにして何も感じずにいられよう?」と記述されるようにそれは確実に彼の心を蝕んでいる。奇策を奇策と認識できないことも恋に盲目になることも彼が徐々に心身の平衡感覚を失っていることの証左、と受け取っても見当違いではないだろう。 このようにぎりぎりの状態で踏みとどまる主人公が恋するのが女性運転士の姚雅綾であることは示唆的である。彼女は運転中に自殺に遭遇し大きなトラウマを抱えているが早期復帰を申請する。運転士として業務に集中している限り彼女は二つのトラウマ記憶を――事故の記憶と以前の職場で自分を裏切った元恋人に関する記憶を――「忘れられる可能性」があったからだ。しかし記憶の意識的な忘却は彼女を本当の回復に導かなかった。事実彼女は復帰後再び自殺に遭遇して回復不可能な心の傷を負い退職する。彼女との関係の喪失は彼に彼が踏みとどまっていた線を無意識に踏み越えさせる――彼は自殺者に特徴的な心理である「心理的視野狭窄」(松本俊彦)に陥り線路に飛び込む寸前で駅員に保護される――。 『地下鉄駅』が描く主人公の悲哀には日常的に生じるトラウマを抑圧して生きる彼の疲労が滲んでいる。そしてその姿はこの作品が持つもう一つの要素と有機的に繫がっている。それは各章の冒頭に置かれた自殺した者たち――公金を横領したサラリーマン、いじめに苦しむ女性中学生、疲弊した主婦、がんに身体を冒された老人――が意を決するまでの時間の間に生起する心理描写なのだが、一見すると書割めいたそれらの描写は主人公の心身が仔細に語られていくことで切迫したものに転調する。主人公の日常がそうであったように、そこには嗤われ、傷つけられ、擦り切れた生があった。「地下鉄駅」という無数の生と死が交差する場所で働く中年男性の日常を描いたこの小説は可笑しい。しかし私たちはそれを笑えない。そこにはぎりぎりの場所で踏みとどまろうとする者たちの、踏みとどまれなかった者たちの、この世界から敗者として切り捨てられた者たちの痛みに満ちた――しかし――かけがえのないたった一つの生が描かれているから。(及川茜訳)(かわさき・ゆう=作家・写真家)  ★カ・チワ=作家・台湾・中国文化大学中文系専任助理教授。著書に兵役経験から生まれた『離島の書』、『花街樹屋』など。一九六七年生。

書籍

書籍名 地下鉄駅
ISBN13 9784309209340
ISBN10 4309209343