2026/03/27号 3面

ポスト・ヒューマニティ時代の宗教

ポスト・ヒューマニティ時代の宗教 古荘 匡義編 宮嶋 俊一  「宗教など存在しない。それはキリスト教をモデルとして西洋近代において生じた、ひとつの考え方にすぎない」「従来考えられてきた人間とは西洋の成人白人男性をモデルとして生み出された見方であって、それは更新されるべきだ」。かなり大雑把ではあるが、宗教概念批判やポストヒューマニティといった現代の学問・思想潮流を評者なりにまとめると、そのようになる。とりわけ前者は宗教学の分野で大きな影響力を持ち、宗教学の終焉を主張する論者も存在している。そうした中、「宗教概念批判」以降、ポストヒューマニティの時代にあって宗教研究はいかにありうるか、本書はそれを探究している。  一〇人の執筆陣による本書は、これまで行われてきた勉強会、研究会、シンポジウムなどの成果であるという。執筆者それぞれの研究分野に違いはあるものの、宗教学・宗教哲学に携わる研究者がその大半を占めている。第Ⅰ部の三論考は、やや広い視座から宗教概念批判やポストヒューマニティを論じている。第1章「宗教概念批判からは何が得られるのか」が、本書全体に通底する問題意識をわかりやすくまとめている。第2章「ポストヒューマンとポスト世俗化――公共圏の変容をめぐって」はブライドッティ、アサド、バトラーら「ポストヒューマン」「ポスト世俗主義」と評される諸思想からハーバーマスの世俗的公共圏概念を批判的に捉え返す試みである。第3章「「多神教」は哲学においてどのように語られてきたか――近代のいくつかの事例を手がかりとして」は、近代的宗教学が用いてきた「多神教/一神教」という二項対立図式の歴史的形成プロセスを追う。宗教概念批判を乗り越えるためのひとつの道標として示されているのが「生きられた宗教」論であり、その視座から宗教研究のあり方を問い直したのが、第Ⅱ部の二論考である。第4章「宗教体験談の図式化によって何をみるか」や第5章「「生きられた神秘」としての宗教哲学――姉崎正治について」などがそれにあたる。第Ⅲ部には、ポストヒューマニティの思想を踏まえて、その先に進むために必要となる「主体性のありか」を問うた論考が収められている。第6章「問いとしての宗教――西谷啓治による学と哲学の実践的意味の取り返し」や第7章「ミシェル・フーコーの霊性論とその向こう――神秘主義的主体論の試み」といった論考がそれにあたる。前者は西谷啓治の宗教哲学のあり方の中にアサドの世俗主義批判と通じるものを見出し、また後者はフーコーの霊的主体論を通して、一七世紀フランスの神秘家スュランの思想から宗教的主体の形象を掬い上げている。第Ⅳ部「宗教概念批判以後の宗教哲学」では、宗教哲学がいかにパレスチナを主題化できるかを問うた第8章「置き去りにされたパレスチナ人たち――ポストコロニアルの宗教哲学序論」、ポスト世俗時代の宗教哲学の可能性を探った第9章「回帰と出発のポスト世俗――ジュディス・バトラーにおけるユダヤ的なもの」、ヨナスやブルーメンベルクを扱った第10章「グノーシス主義の回帰?――ポストヒューマン時代の宗教概念」など多様な論考が並ぶ。  ここまで目次に従って本書の内容の概略を示してきたが、それだけでも古典的な研究者から現代の思想家まで、幅広く取り扱われていることがわかるだろう。同書からは新しい宗教研究のあり方を模索しようという編者・執筆者らの意欲を感じた。いずれの論者もそれぞれ専門分野の研究に依拠しつつ、それを現代的な問題状況に結びつけようと努力と工夫を重ねている。内容が多岐にわたり、それぞれの論考が比較的自立していることから、今後に向けての本書全体としての方向性が最後にあらためて示されてもよかったようにも思われるが、それは本書を読んだ読者に課せられた課題なのだろう。(執筆=古荘匡義・藤井修平・清家竜介・山根秀介・猪瀬優理・樽田勇樹・渡辺優・根無一行・坪光生雄・下田和宣)(みやじま・しゅんいち=北海道大学大学院教授・宗教学・死生学)  ★ふるそう・ただよし=龍谷大学准教授・宗教哲学・日本宗教思想。著書に『綱島梁川の宗教哲学と実践』など。一九八〇年生。

書籍

書籍名 ポスト・ヒューマニティ時代の宗教
ISBN13 9784326103591
ISBN10 4326103590