2025/08/08号 4面

自由 上・下

自由 上・下 アンゲラ・メルケル著 平島 健司  本書は、ドイツ連邦共和国の第8代首相として4期16年間にわたりドイツの政治を率いたアンゲラ・メルケルが、自らの半生を振り返った回顧録である。メルケルは、中道右派の政党であるキリスト教民主同盟(CDU)の党首として、まず2005年に中道左派のドイツ社会民主党(SPD)との間、次いで2009年には小党の自由民主党(FDP)との間、さらに2013年と2017年には再びSPDとの間の連立政権の首班となり、2021年に任期を全うして政界を退いた。その間、ドイツとヨーロッパを襲った多元的な危機の中にあって彼女が見せた、文字通りの獅子奮迅の働きぶりは今もなお人々の記憶に新しい。  ハンブルクに生まれながら(1954年)、プロテスタント教会の牧師であった父に連れられて旧東独に移り住んだメルケルにとって「自由」は特別の意味を持っていた。共産党が市民生活の隅々にまで監視の目を光らせる抑圧体制の下、自らの尊厳を「のんきさ」をもって守りえた、とする誇らしげな語り口が印象的である。科学アカデミーの物理化学研究所の研究員であったメルケルが、ベルリンの壁の崩壊(1989年)とともにただちに自由を求める闘士となり在野の市民運動に身を投じたのも当然であった。そして、壁の崩壊後、1年を数えずして東西ドイツが統一された後(1990年)、「社会的市場経済」の理念に共鳴したメルケルは統一ドイツの最初の連邦議会選挙でCDUから出馬し、初当選を果たす。統一後の東部の再建が課題となる中、最初の政権では女性と青少年問題を、続いては環境、自然保護、原子力安全を担当する大臣として入閣し、内外で頭角を現したのである。男女同権の新法制定や気候変動の国際的取り組みの発足は、彼女の貢献なくしては実現されなかっただろう。  統一を成し遂げたコールの下で副党首の一人となったメルケルは、1998年の総選挙に敗北して野に下ったCDUの幹事長に抜擢されたが、早くもその2年後には党首に選出された。名誉党首となって一線を退いたコールに過去の汚職が発覚し、事件が広がる中で混乱に陥ったCDUの立て直しと刷新を託されたのである。この総選挙で辛勝を収めたSPDが緑の党と連立を組み、連邦の与党となった2期7年間を経て、メルケルはついにドイツ史上初の女性首相に昇り詰め、自由を「ドイツへの奉仕」(第4部と第5部)のために活かすことになった。  今日から振り返ると分かるように、2000年代の終わりごろから世界は相次ぐ危機的な変動に見舞われてきた。リーマン・ショックに始まった世界金融危機では、メルケル政権は国内の銀行部門の救済と景気対策に取り組み、その余波の中からギリシアに端を発したソブリン危機では、ユーロ圏諸国とEU諸機関によるギリシアの救済とユーロ防衛のための制度構築を主導した。当時の対応に対し、欧州統合の推進派や南欧諸国から向けられた厳しい批判にメルケルはドイツ国民を代表する立場を強調しつつ、切迫した状況の中で下した決定の正当性を主張して譲らない。しかし、国際的な抗議にもかかわらず、クリミア併合に続き、現地の分離独立派の動きに乗じてドンバスにも領土の侵犯を及ぼそうとするロシアのプーチンに対しては外交の無力を認めるしかなかった。メルケルが、フランス大統領とともにその締結に尽力した、ロシアとウクライナの間の停戦合意もプーチンによって一方的に反故にされるのである。また、主としてシリア内戦から生まれた多くの難民がドイツとオーストリアの国境に押し寄せた難民危機(2015年)に際して、メルケルは「私たちならできる」と国民に呼びかけ、人道的見地に立つ難民の受け入れを進めた。彼女自身、EUの難民政策を整え、流入を減らすためにトルコとの協定を締結するなど、善後策による修正を講じたが、受け入れ人数の上限設定を重視する姉妹党との軋轢が、首相としての決定的なターニングポイントになった、とも述懐する。メルケルは2018年暮れにCDU党首を退任し、首相としての任期満了を区切りとする政界からの引退を公にしたのである。  連邦首相はドイツの政治システムにあって万能ではない。多元的な主体との間での不断の調整が欠かせない。友党や自党においてさえ現れる政敵を侮ることもできない。メルケルが置かれた状況もその例外ではなかった。連続する危機への対応に追われるうちに未着手となった多くの重要政策は、後継者が克服すべき挑戦として残されたのだ。  翻訳は素晴らしく良質で、読み始めるとまさに巻を置く能わずであった。若干の用語訳の改善が望まれる他、ドイツとEUの政治制度の運用に関する概説があれば、一般の読者の助けになっただろうが、これは望蜀の嘆なのかもしれない。(長谷川圭・柴田さとみ訳)(ひらしま・けんじ=東京大学名誉教授・比較政治学・ドイツ=ヨーロッパ政治)  ★アンゲラ・メルケル=元ドイツ連邦共和国連邦首相(二〇〇五―二〇二一)。一九五四年ハンブルク生れ。ドイツ民主共和国で育ち、一九九〇年にドイツ連邦議会入りを果たす。二〇〇〇年から一八年までドイツ・キリスト教民主同盟の党首を務め、二一年に政治活動から引退した。

書籍

書籍名 自由 上・下
ISBN13 9784041136324