2025/08/22号 1面

現代史の起点 ソ連終焉への道

対談=塩川伸明・渋谷謙次郎<東西冷戦時代の終焉が意味するもの>『現代史の起点 ソ連終焉への道』(岩波書店)刊行を機に
対談=塩川伸明・渋谷謙次郎 <東西冷戦時代の終焉が意味するもの> 『現代史の起点 ソ連終焉への道』(岩波書店)刊行を機に  東京大学名誉教授・塩川伸明氏の新刊『現代史の起点 ソ連終焉への道』(岩波書店)が刊行された。ソ連解体という時代を画する大変動のプロセスを多面的、包括的に描いた一冊である。  本書刊行を機に、塩川氏と早稲田大学教授の渋谷謙次郎氏に対談をお願いした。  なお、お二方には2014年6月6日号で、「ウクライナ問題、ここを理解しないと絶対に見えてこないこと」の題でも対談いただいているので、今号との併読をおすすめしたい。 (編集部)   ※本文中の地名表記は本書記載に準拠した。  渋谷 本書『現代史の起点 ソ連終焉への道』は、大変刺激的なタイトルです。というのも、従来、ソ連の解体をある種20世紀の「終わり」、社会主義や共産主義といった大文字の理念の「終わり」と捉える、「終わり」的な意味付与が少なからずなされてきましたが、本書では「現代史の起点」と「始まり」的なモチーフとして見ているからです。  「はしがき」で指摘されているように、通常、現代史というと、第一次世界大戦やロシア革命あたりを起点と捉えることが多いのですが、本書を通読すると、現代史というのは、時の経過とともに、その起点もまた更新されていく、ある意味当然のことに気づかされます。  では、塩川さんはどのような観点からソ連の終焉を現代史の起点と捉えるにいたったのか。本書タイトルに込められたモチーフや、こうしたタイトルを掲げるに至った経緯などをお話しいただけますか。  塩川 これまで冷戦的な対抗図式が、長きにわたって世界史の中心問題であり続けてきましたが、その状況が終わり、新しい時代に突入した、というイメージです。  ただし、これから先の新しい時代の中身について、はっきりしたビジョンがあるわけではありません。かつてとは異なる、新しい対抗関係の展開があちこちで見受けられますが、それらは何らかの新しい原理で捉えられるものではなく、見定め難い混沌状況という感じです。「現代史の起点」という言葉は、そういう意味合いで使いました。  渋谷 東西冷戦時代の終焉を現代史の起点とするならば、ソ連とアメリカが君臨していた時代は、むしろ「近代」に送り返されるイメージですか?  塩川 そうです。今から見ると「一つ前の時代」だったということです。では、それがどうして終わったのか。それが終わったことが何を意味するのか。そこが主題になります。  渋谷 塩川さんは、2021年に『国家の解体ペレストロイカとソ連の最期』(全3巻、東京大学出版会)という大著を刊行され、そこではソ連を構成した各共和国におけるペレストロイカからソ連解体に至る動向が、緻密かつ実証的に解明されています。その前著3巻本の「概説書」的な役割を本書は兼ねているものの、決してダイジェスト版ではないのだとも本書内で述べられています。  とりわけ本書では、ベルリンの壁の開放からドイツ統一、NATOとワルシャワ条約機構をめぐる当時のゴルバチョフ・ソ連と西側諸国との駆け引きなどに改めてスポットがあてられていて、私も興味深く拝読しました。なぜ、この点をクローズアップされたのか。それは前著3巻本の出版後に起きたウクライナ戦争で改めてNATOの東方拡大の経緯が取り沙汰されたことに端を発したからではないでしょうか。  ウクライナ戦争開戦後のロシア側の言い分は、NATOの盟主である米国が、NATOを東方に一ミリたりとも拡大させないという約束を当時のゴルバチョフと交わしておきながら噓をついた。それはロシアに対する約束違反だという。他方で、そんな約束は正式に取り交わされていないという反論もありますが、塩川さんはいずれの立場にも与せず、本書第9章でこの問題に関する一定の説明を試みられます。  塩川 NATO不拡大論については、明確な約束があったわけではありません。「こういう可能性もある」ということが、ゲンシャー西独外相やベイカー米国国務長官によってゴルバチョフに伝えられただけです。したがって、これを約束違反とまで言うのは無理があります。  ただし、約束違反であろうがなかろうが、米独の重要人物によって示唆された考え方とはまるで違う展開がその後に進展したわけで、その意味では、とにかくソ連側が押しまくられたというのが現実だったわけです。  渋谷 押しまくられた、つまり、東独が西独に吸収され、ワルシャワ条約機構が一方的に解体され、まぎれもなく地政学的な意味での後退を余儀なくされた。そのことについて塩川さんは、ゴルバチョフが「明らかな敗者となった」とも冷静に指摘されます。  塩川 90年代後半以降、NATOはどんどん拡大します。これはロシアにとって非常に不本意だったことは明らかで、なぜならゴルバチョフ、エリツィン、プーチンと3代にわたり、それぞれ個性の異なる指導者は皆、その限りにおいては意見が一致しているからです。不本意ではあるけれども、対抗する術がない。それが90年代後半から2000年代初頭にかけてのロシアの現実でした。  渋谷 冷戦の終結に際して、当時の米国ブッシュ政権が表向きソ連に不快感を与えないために「勝者も敗者もない冷戦終焉」というレトリックを用いた。ところが、実際にソ連が解体するとブッシュは「冷戦は終わったのではなく、われわれが勝利した」と発言していたのだと、塩川さんは本書で繰り返し指摘します。こうした建前と本音の落差は、その後の米ロ関係、もっというとロシアと西側諸国との関係を歪なものにしてしまったのではないでしょうか。  ロシアはソ連を失いつつも、日・独のように第二次世界大戦で名実ともに負け、他国の占領統治を受け入れたわけではなかった。それにもかかわらず、米国を始めとする西側諸国が疲弊したロシアを準敗戦国のようにみなし、結果的に多くのロシア国民に屈辱感を与えたことからして、ロシア人にとっての1991年は、日本人にとっての1945年に似ているでしょうか。  塩川 いま渋谷さんがおっしゃった、ソ連解体前後の時期のロシアを、日本の1945年とアナロジーするご指摘は、非常に興味深い観点で、確かに似ているところはあると思います。ただ一つ決定的に違うのは、従来「西側的」とされてきたリベラルデモクラシーや市場経済を受容するという考えは、ペレストロイカ後半のソ連においては自発的に広まっていましたから、日本のように敗戦で押し付けられたわけではないということです。  その問題と、ゴルバチョフとエリツィンの対抗という問題が複雑に絡み合った点が非常に特異だった。ゴルバチョフの考え方は時期によって変化しましたが、ペレストロイカ後半には、リベラルデモクラシー及び市場経済を受容するようになりましたので、事実上、自ら体制転換を進めていったのです。その限りではエリツィンと異ならないけれど、その主導権をどちらがとるかが争われました。  渋谷 2000年代に入り、米国のジャーナリストのアン・ギャレルズが『プーチンの国』(築地誠子訳、原書房)で、ソ連崩壊後の市井のロシア人たちの心情を丹念な取材に基づき描きましたが、当時のロシア人たちが、「マフィアの支配する泥棒国家だ」と西側諸国から責め立てられることに辟易している様子がうかがえます。そのギャレルズが使った「西側諸国の犯した罪」という表現から、西側諸国が地政学的にも相当ロシアを追い詰めて、屈辱感を与えていったことが容易に推察できます。  このようにロシア人たちが味わってきた屈辱感を国際政治、国際関係論に当てはめてみると、米国のステファン・ウォルトやジョン・ミアシャイマーといったいわゆるリアリストの論者たちがウクライナ戦争以前から「ロシアを刺激することなかれ」と警告を発してきました。冷戦の勝敗の図式に端を発する対ロシア政策を分析された塩川さんから見て、このようなリアリストの論者の警告をどう受け止められますか。  塩川 渋谷さんがご指摘になった、ロシアへの屈辱感付与は重要な論点です。だからこそ、いわゆるリアリスト的な国際政治学者は、NATOの拡大がロシアを追い詰めることになり、非常に危険だと警告を発していたのです。  ただし、いま名前の挙がったウォルトやミアシャイマーが、どこまでロシアの内部事情をきちんと踏まえているかには疑問の余地があります。むしろ私が重要視したいのは、米国の外交官で古参のロシア専門家であるジョージ・ケナンです。彼は早い段階から一貫して、NATO拡大の危険性に警鐘を鳴らしていました。  先ごろ刊行された、M・E・サロッティ『1インチの攻防 上下』(岩間陽子・細谷雄一・板橋拓己監訳、岩波書店)では、ケナンの考え方が、米国の知識人の間ではかなり広く浸透していたものの、政権関係者にはあまり取り上げられなかった、ということが書かれています。このように、ケナンに代表されるリアリストの警告が政権によって無視された事実は、米国にとって不幸なことだったのではないかと考えています。  渋谷 ジョージ・ケナンというある種の良心的な存在も、NATOの拡大を憂慮していたわけですね。それを米国の少なからぬ知識人が同じように共有していたものの、90年代以降の米政権の態度とは一定の距離があったという塩川さんのご指摘は非常に重要かと思います。  渋谷 私が本書で注目したのは、第2章のペレストロイカ以前の時期、つまり、短命政権で終わったアンドロポフやチェルネンコ時代の分析です。ここは日本の研究者の間でもあまり顧みられない部分だと思います。この時期に、ある種の体制内改革論が水面下で進行していて、後のゴルバチョフによるペレストロイカが何の前触れもなく始まったのではないことが理解できます。  そのゴルバチョフは、ブレジネフ時代晩期に党の最高指導部入りしますが、その後のアンドロポフ、チェルネンコ時代というのは、比喩的に、かつてのブレジネフ的なものと後のゴルバチョフ的なものがしのぎを削っていた時代と言えるのでしょうか。  塩川 おっしゃるように、私はアンドロポフ、チェルネンコの時代を比較的重視しています。ただ、「かつてのブレジネフ的なものと後のゴルバチョフ的なものがしのぎを削っていた」という表現では、最高指導者にすべてを代表させてしまうように見えてしまいます。私はむしろ、知識人たちの間で、すでにブレジネフ期から体制内改革論が密かに広がっていたことを強調しています。  確かに、ブレジネフ期の様々な引き締めによって、かつての異論派は、公然たる発言が非常に難しくなりました。だからといって、改革を志す人たちがいなくなったわけではなく、あちこちに隠然たる形で存在していた。それがブレジネフ後期、さらにアンドロポフ期に広がっていく。この時期に発言していた体制内改革派的な知識人の中には、後のペレストロイカで活躍する人たちがたくさん含まれます。  ゴルバチョフは、そういった体制内改革派的な知識人たちと接触をもっていました。そのことが後に大きな意味を持ってくる。端的な例としては、ペレストロイカの時期にゴルバチョフの補佐官になったシャフナザーロフとチェルニャーエフがそうです。彼らは、ブレジネフ期から密かに「共産主義の社会民主主義化」という路線を考えるようになっていた。それ自体はゴルバチョフの考えとは一致しませんでしたが、そのアイディアを密かに植えこんでいった、そうした背景が、後のペレストロイカにつながっていくのです。  渋谷 なるほど。ブレジネフ晩期からアンドロポフやチェルネンコ時代にかけての体制内改革を主導する知識人の役割はおそらく一般に思われているよりももっと大きかったということですね。  ゴルバチョフは1985年3月のチェルネンコ書記長死去にともない、書記長に就任します。ゴルバチョフというとペレストロイカとイコールで結びつける方が多いと思いますが、実際、ゴルバチョフのペレストロイカが急進的な政治改革に転化していくまでに3年というそれなりに長い期間を要し、塩川さんの分析によると、その間にとりわけ連邦構成共和国の人事の刷新などをめぐって、複雑な状況が進行していたことが見えてきます。  一般にペレストロイカ時代というと、ソ連全土で諸民族の自己主張が強まり、民族的権利や自治の拡大が見られたと理解されますが、実際はブレジネフ時代に多くの連邦構成共和国で民族派幹部がいわば封建領主のごとく根を下ろし、縁故主義、腐敗・汚職の構造があった。そこでゴルバチョフ指導部の意向を受けたロシア人の幹部を送り込み、綱紀粛正、人事刷新を図ろうとしたものの、かえって民族感情を逆なでし、地元の反発を招いた。そうしたペレストロイカ前期的な政策が招いた反発が、後の連邦の遠心化、分散化をもたらしたと理解できるでしょうか。  塩川 中央指導部による民族共和国への綱紀粛正や人事刷新といった政策は、実はアンドロポフの時代に始まっていました。そのアンドロポフの政策を初期ゴルバチョフも引き継ぎ、似たようなことをやろうとしたのですが、中央アジア諸国から強烈な反発を招いた。その端的な例が86年末のアルマアタ事件です。それ以外にも、あちこちで反発を招き、その後は中央からの統制が弱まります。そして、中央があらゆることに口を出すのではなく、各地のことはそれぞれの幹部に任せる方向に転換するのです。  その転換が、かえって新しい状況を可能にしていき、それ以降、各地で新しい動きが出てくる。それが88年から89年くらいにかけての展開だと考えています。  渋谷 改革がある種挫折したことによって、逆に地域の自立性が出てきた。それが後のソヴィエト連邦制の遠心化だとか、もっと言うと、主権宣言の連鎖にも結びついていくという流れは、ペレストロイカにおける連邦制や民族問題が、想像以上に複雑な前提条件を持っていたことを表していますね。  渋谷 塩川さんはかねてから、ペレストロイカ時代から始まった比較的長期にわたる体制転換のプロセスと、1991年8月以降のソ連邦解体の局面は分けて考える必要があることをご指摘されてきました。  その上で、ここからは91年8月以降から同年末にかけてのソ連解体に至る「最終局面」がいかなる力学で起きたのかを考えてみたいです。  91年8月19日にソ連保守派クーデタが起きます。黒海沿岸の保養地で休養中だったゴルバチョフ大統領を一時的に軟禁状態に置き、首都で武力所轄官庁の首脳らが「国家非常事態委員会」を組織し、一時全権を掌握したものの、文字通り三日天下で失敗し終わりました。  このいわゆる「8月政変」を、塩川さんはクーデタと対抗革命という二重の側面から説明されます。私も大学の講義でこの8月政変に触れる際は、反旗を翻した当時のエリツィン・ロシア大統領によるカウンター・クーデタと呼ぶことも多いのですが、かつてソ連に埋没していたロシアが、今度は逆にソ連を飲み込んでいく。モスクワというソ連の首都であると同時にロシアの首都という特殊な場所で、文字通りの二重権力が見られます。  このクーデタの模様を描いた、ウクライナ出身のセルゲイ・ロズニツァ監督のドキュメント映画『新生ロシア1991』を観ると、舞台は首都モスクワではなくレニングラードですが、国家非常事態委員会のクーデタに反抗する無数の群衆で埋め尽くされる宮殿広場や改革派のサプチャーク・レニングラード市長による演説が映し出されます。この映像からは、旧体制が失墜し、新体制を生み出す時の熱気が伝わってきて、さながら市民革命の様相を呈しているように見受けられます。  少し話が逸れますが、憲法学者の宮沢俊義は、日本の敗戦を境に天皇主権から国民主権へ、旧体制から新体制へ転換したことを指して「八月革命」説を唱えました。ただ、日本で実際に革命が起きたわけではないので、これは一憲法学者の一つの解釈と見られる向きもありますが、91年8月のロシアで起きた動きは名実ともに8月市民革命説を唱えても決して奇想天外とは思えず、塩川さんも前著3巻本で「未成熟ながら「ブルジョア革命」という側面がある」と指摘されていたと思います。改めて、このクーデタをどう理解すればよいでしょうか。  塩川 ロシア権力によるソ連中央権力への反逆という論点は重要ですが、それはこの時に急に始まったわけではなく、90年6月頃から進行していました。それが91年8月クーデタで絶頂に達し、ついにロシアがソ連を倒すという現象が生じた。まずはこの点をおさえておく必要があります。  この時に、市民革命のような様相が見られたのは事実です。ただ、それは一時的なものでした。89~91年前半にかけて、旧体制の失墜と新体制の誕生という流れが既に進行しており、それを国家非常事態委員会が逆戻しさせようとしたので、多くの民衆が危機感を覚え、広場に大挙しました。ですが、それもほんの数日で完了し、数日後には皆、元の生活に戻っていきました。  ですから、このクーデタと政変が市民革命のような様相を呈した事実は、大事なことではありますが、これはそれ以前から進行していた革命の再確認であり、ごく短期間に終わったという点に着目する方が、当時の状況を正確に理解できると思います。それから、私は「未成熟ながらブルジョア革命という側面があった」と指摘しましたが、それはあくまで「……という側面もあった」にとどまり、それ自体が最重要だったと考えているわけではありません。  むしろ、あの時点でのロシア民衆の動きの中で一番大きかったのは、ロシアナショナリズムの噴出です。ソ連中央のクーデタに対抗して、「ロシア、ロシア」と皆が叫び、現在のロシア国旗として使われている三色旗を携えて、民衆が街に繰り出した。これはその後も続いていく動きであり、民衆の動きとしてはこちらの方が重要ではないかと思います。  渋谷 もう一点、革命に関連した話題で、現代ロシアのユニークな比較憲法学者のアンドレイ・メドシェフスキーが、古いソヴィエト体制から現代ロシアの憲法体制への移行を「憲法革命」と捉えています。時期的には89年から91年8月までを第一段階(古いソヴィエトシステムの動揺)、91年8月から93年10月まで第二段階(ロシアの新憲法体制の創出に向けた困難な歩み)と設定しています。第一段階は塩川さんの分析でいうところのペレストロイカの急進化による統治機構の改変がはじまる時期にあたり、第二段階の起点は8月クーデタ、帰着点がエリツィンの議会砲撃のクーデタ(10月政変)までです。  二重権力化した場合、力が事を決するロシア史の教訓を思い返せば、ここまでの過程はさながら二段階革命論のように思えなくもありません。それはもちろん唯物史観でいうブルジョア革命、社会主義革命といった古典的二段階革命ではなく、脱共産主義のブルジョア革命(91年8月)、その総仕上げとしての国民投票をも活用したボナパルト的政変(93年10月~12月)を指します。  ソ連崩壊後の動向は本書の射程外ですが、そういった皮肉な意味での二段階革命論の見方に関して、塩川さんはどのようにお考えになりますか。  塩川 一連の憲法改正を革命の観点から捉え、一種の二段階革命として捉える発想は非常に興味深いものですが、私の考えとは少し違っています。ペレストロイカ期のソ連では何度も憲法改正が行われました。比較的はじめの方の、88、89年の憲法改正は、大雑把に言って社会主義改革という性格を帯びていたと思います。ところが、90年の憲法改正では、複数政党制や私的所有まで認められたので、ここで体制転換の様相を帯びてくる。そのように考えると、実はペレストロイカ期に既に二段階の革命があって、第一段階が社会主義の改革、そして第二段階において体制転換に行き着いたのだと、私は捉えています。  では、91~93年に起きたものは何だったかというと、これは単なる憲法改正ではありません。なぜなら、ソ連国家が解体され、そのことを前提にしてロシア憲法という全く新しいものを採択したわけです。つまり、同じ国という枠内で憲法が改正された91年までの動きと、国が壊されたことによって新しい国家の新しい憲法が採択された93年憲法では、全く前提の異なる出来事だといえます。  渋谷 もちろん、メドシェフスキーの第一段階の中にもいくつかの節目があることは指摘していますが、塩川さんの見方ではその中に二段階の革命があったという説明しかり、メドシェフスキーのいう第二段階はそもそも性格が異なるものだというご指摘を聞くと、一口に憲法革命といっても複合的な分析を要することがわかりました。この点は私自身の研究テーマにも関わってくる部分ですので、今のご説明は大変刺激的でした。  渋谷 ここからは、塩川さんの「なぜ(いかに)ソ連は解体したのか」という根本問題を、連邦制の観点から再考してみます。  91年3月の「刷新されたソ連邦」の是非を問う全ソ連レベルでの国民投票に参加しなかったバルト三国やグルジア、アルメニア、モルドヴァの独立という選択肢をゴルバチョフは当時認め始めていたと言われ、それらの共和国がソ連から抜けたとしてもソ連解体が決まったわけではなかった。それよりも、前述の8月クーデタが諸共和国に与えた影響、つまりゴルバチョフとライバル関係にあったロシアのエリツィンと、かねてから「主権派コムニスト」に転向していたウクライナのクラフチューク最高会議議長の動向がその後の展開を大きく左右したのではないか。同年12月1日に行われた独立の是非を問う国民投票で90%以上が賛成にまわったウクライナとロシアが結託し、ベラルーシのシュシュケヴィチを巻き込んで、ゴルバチョフ抜きのソ連解体の流れを作ったと理解すればよろしいでしょうか。  塩川 今のご質問は、私の専門の中心部分と関わるので、少し長くなりますが、流れを詳しく説明します。  ソ連という国を、より分権的な同盟に再編しながら維持するのか、それとも解体するのかという問題は、ペレストロイカの後半期、90年以降に重要なテーマとして浮かび上がっていました。  その一つの画期が、91年4月のいわゆる「9プラス1の合意」です。これは、独立派を除く9つの共和国の首脳とゴルバチョフが会談して結んだ合意で、これにより、独立派を除く9つの共和国は、従来よりも緩やかな同盟条約を結び、分権的な同盟に留まるという方向に進みました。これが91年4月から8月にかけての状況です。  ところが、8月クーデタで一気に情勢が変化します。クーデタが失敗したことで、連邦権力は壊滅的に弱体化しました。そこにロシアの権力が取って代わり、強力な位置を占めるようになりました。他方、ロシア以外の共和国は、強大になりすぎたロシアに対抗し、自分たちの地位を保つために、次々と独立宣言を採択する。その筆頭がウクライナです。  当時のウクライナ最高会議長のクラフチュークは、以前から相対的にウクライナの主権を重視する立場でしたが、決して独立論を掲げていたわけではありません。しかし、8月クーデタを受けて、一気に独立論に転向した。だけれども、このときに採択されたウクライナ独立宣言自体はごく簡略なもので、独立した後に、独立国同士で同盟を結ぶのか否かという肝心な問題には触れておらず、曖昧性がありました。  その後のウクライナは、12月1日の国民投票及び大統領選挙に向けて、大統領選の主要候補たちが一様に独立論を唱えたこともあり、一気に独立論が広まりました。ただし、それぞれの候補者が唱える独立論にも立場による微妙な差異があり、解釈の分かれが生じていた。具体的には、元共産党官僚のクラフチューク、ウクライナ人民戦線「ルーフ」主流派のチョルノヴィル、ルーフ内急進派のルキヤネンコ、ロシア語系住民が多いウクライナ東南部地域代表で穏健派のフリニョフといった具合に、急進か穏健の差があったので、外観的には圧倒的に独立支持で固まっていたかに見えるウクライナの中でも、実は内部分岐が続いていました。そして、当選したクラフチュークは、チョルノヴィルやルキヤネンコを支持した勢力を取り込むため、急進独立論に傾斜していくことになります。  では、その間にロシアで何が起きていたかというと、今後の方向性をめぐってロシア権力内部で深刻な分裂が進行していました。それは、一方は、分権化した同盟としてのソ連の枠を維持しつつ、その中でロシアが主導権を取って改革を進めていく路線、もう一方は、同盟を維持することはロシアにとって負担だから、諸共和国を切り捨てて、「ロシア一国資本主義」を作っていくという路線です。後者で念頭に置かれていたのは、貧しい中央アジア諸国を切り捨てることです。ここは非常に重要なポイントです。  結局のところ、エリツィンは11月頃から後者のソ連解体論に舵を切りますが、その際、自らがソ連解体のイニシアチブを取るのはあまり得策でないと考え、ウクライナの動きがソ連解体を推し進めている要因だとして、一種の口実として利用したわけです。  そういう背景のもと、エリツィンとクラフチュークが結託して、ゴルバチョフを排除した形でのソ連解体宣言へ向かっていくことになりました。ただし、このソ連解体宣言というのは、中央アジアその他諸国のことを度外視して、あくまでスラヴ系三国だけで進められます。そのことに、中央アジアを代表するナザルバーエフ・カザフスタン大統領は不快感を表明しました。しかし、彼は同時に、自分はプラグマティストだとして、条件付きでスラヴ系三国のソ連解体論に乗る可能性を示唆しました。  結局、中央アジア諸国はスラヴ系三国の方針に若干の注文をつけつつ、ソ連に代わる独立国家共同体の共同創設者になるという態度を表明し、ソ連解体は事後的に合法化されました。それまでの動向を様子見していた欧米諸国も、最終的に諸国の独立を承認したことで、ソ連国家が解体したという流れです。  渋谷 一口に独立といっても、その過程にはグラデーションがあり、必ずしも独立がゴルバチョフの同盟条約構想に一切乗らないことを意味するわけではなかったし、何よりソ連解体というのは、必然的な瓦解であるとか、内部崩壊したというよりも、いくつかの論理や各国の事情、それを担った人物たちの目算などが幾重にも折り重なった上での予期せぬ形だった。決して必然ではなかったということですね。  いささか余談ですが、エリツィンを除くソ連解体の主要人物たち、ベラルーシのシュシュケヴィチ、ウクライナのクラフチューク、そしてゴルバチョフが2022年のプーチンによるウクライナ侵攻後に相次いで亡くなりました。これはもちろん偶然ですが、何か因果のようなものも感じます。あえて本書に引きつけて言うなら、2022年は非常に混沌とした現代史において何かが崩れ去った年であったと言えるのではないでしょうか。  本書しかり、これまでの塩川さんの著書でペレストロイカ論、ソ連崩壊論を学ばせていただいた一読者としてこの先、塩川さんが2014年、2022年を分析した書籍の刊行に期待せざるをえないのですが、そのような願いは叶いますか。  塩川 そのあたりのことは非常に厄介な主題です。私は必死に情報を集め、自分なりに検討した内容をホームページ上にアップロードしており、代表的なものとして「ウクライナ戦争の序幕」という文章があります(https://www7b.biglobe.ne.jp/~shiokawa/)。ただ、これを改訂して書籍として公表することは極度に難しいので、ご期待に添えず大変申し訳なく思います。  渋谷 塩川さんがホームページで文章を公開されていることについては、旧ソ連などの研究者なら皆さんよくご存知かと思います。今のご発言には謙遜が含まれていると感じつつ、多面的に2014年、2022年の分析を可能にする日本で数少ない研究者が塩川さんだと思っていますので、今後のお仕事も楽しみにしています。(おわり)  ★しおかわ・のぶあき=東京大学名誉教授・ロシア・旧ソ連諸国近現代政治史・比較政治学。著書に『終焉の中のソ連史』『現存した社会主義』『民族とネイション』『歴史の中のロシア革命とソ連』『国家の解体』(全3巻)など。一九四八年生。  ★しぶや・けんじろう=早稲田大学教授・ロシア法。著書に『法を通してみたロシア国家』、編著に『言語権の理論と実践』『欧州諸国の言語法』など。