2026/10/09号 7面

問いかける戦犯・増田榮一

問いかける戦犯・増田榮一 井上 健編著 中立 悠紀  アジア・太平洋戦争と呼ばれるあの戦争が終わってから八一年の月日がたつ。戦場体験の存命者は少なくなりつつあり、戦犯裁判の体験者に至ってはほとんど存命していない。私たちはあの戦争中に戦場で何が起きていたのか、そして敗戦後の戦犯裁判はどのようなものだったのかを、公文書や私文書などの記録によって知るしか術がなくなりつつある。  本書は、そのような問題意識を持った著者が、増田榮一(一八八九―一九七六、陸軍大佐)の書き残した手記等を翻刻し、解説・考察を施したものである。  増田は敗戦間際にサイゴンに設置された「印度支那臨時俘虜収容所」の所長を務めた人物である。フランスによるサイゴン裁判で「不法監禁」の罪に問われ、終身刑の判決を受けた。その後、プロコンドール島(現・コンソン島)刑務所で二年七ヶ月、巣鴨プリズンで約三年間の獄中生活を送った。  昨年、難波ちづる氏が『日本人戦犯裁判とフランス インドシナ・サイゴン裁判・東京裁判をめぐる攻防』(慶應義塾大学出版会、二〇二五年)を刊行するなど、フランスによる日本人戦犯裁判の実態が明らかになりつつある。しかしながら、印度支那臨時俘虜収容所およびこれを裁いた戦犯裁判の実態は不明点が多く、そうした意味で増田の手記等の史料的価値は高い。  そもそもヴィシー政権下のインドシナ政府は、日本とは共同支配を行った間柄であった。しかし、一九四四年八月にド・ゴールの自由フランスがフランス本土の奪還に成功すると、フランスは連合国の一員となった。日本軍は一九四五年三月にフランス軍の武装解除を実行。フランス軍人やその家族ら非戦闘員を「捕虜」として収容する印度支那臨時俘虜収容所が設置された(捕虜の総数は約一万五〇〇〇名)。 増田はこの収容所の所長を務めていたため、サイゴン裁判「第一四号事件」として裁かれたわけである。戦犯容疑者となった増田は、フランス側に私物を奪われ、拷問を伴う取り調べなど、不当な扱いを受けることとなる。著者は「終戦間際の二ヶ月半ほど所長として在任しただけの増田は、収容所での捕虜虐待や強制労働の罪に問われ」たと、同情的である(二六二頁)。  当時は、フランスに戦犯裁判を行う権限があるのかどうか他の連合国からも疑問が呈されており、またフランス側の準備不足も甚だしかった。著者は「ド・ゴールのフランス共和国臨時政府は、第二次世界大戦中に日本と協力関係にあった負い目があり、それを清算して戦後の連合国内での存在感を誇示するために、短期間ではあるが他国と同様に日本軍に酷い目に遭わされたことを強調する必要があった」と指摘し(二七五頁)、刑事事実を規定する法律が一〇〇年以上前のフランス法であったことや、他国に比べて重い量刑であったフランス戦犯裁判の特徴を強調する。  増田の裁判についても、収容所に捕虜を監禁したことそれ自体が「不法監禁」とされたが、起訴するためには本来、拷問などを目的とした拘禁であったことを容疑に挙げねばならなかったはずだと著者は鋭く指摘する。特にこの増田ケースが特異なのは、他国のBC級戦犯裁判における不法逮捕拘禁の対象が、すべて「非戦闘員」であったのに対し、捕虜収容所に捕虜を収容したこと自体を罪に問うた例は、増田の判決のみであった点だという(二九二頁)。著者が手記を読んで「戦犯に対するイメージが大きく変わった」とするのも理解できる(三二〇頁)。  また、増田が収監され「最悪の収監先」とも呼ばれたプロコンドール島での生活が具体的に紹介された意義も大きい。日本人戦犯がフランス兵の代わりにカンボジア人やベトナム人囚人の監視にあたっていたという指摘は興味深い。現地人による脱植民地化と、フランスによる再植民地化が交錯する中で、日本人戦犯が担わされた役割、目撃した凄惨な実態(フランス側によるベトナム人への拷問)は、世界史の文脈において重要な意味を持つ。  一方、サンフランシスコ平和条約(および日華条約)後に連合国の中で日本人戦犯を早期に釈放した国は、順番に中華民国(一九五二年)、フランス(一九五三年)となるが、なぜフランスによる釈放は早かったのか、その背景については気になるところであった。  アジア・太平洋戦争におけるフランスの動向、日仏関係、戦犯裁判の研究成果が続々と刊行されつつある。こうした知見を踏まえ、マクロな視点からサイゴン裁判の全貌について考察を深めていきたい。(なかだて・ゆうき=東京女子大学現代教養学部非常勤講師・歴史文化)  ★いのうえ・けん=研究団体「八王子・昭和史の会」副代表。共著に『ガイドブック 八王子の戦跡』など。一九五六年生。

書籍

書籍名 問いかける戦犯・増田榮一
ISBN13 9784816626050
ISBN10 4816626050