若冲、川を下る
黒川 創著
林 浩平
黒川創による私小説である。面白かった。タイトルにあの奇想の絵師・若冲の名があるように、名作『若冲の目』以来の二十数年ぶりの続編かと期待する読者も多いだろう。そうだともいえるが、こちらは京都と大阪を結ぶ淀川を若冲が親友の相国寺の僧侶・大典顕常とともに船で川下りをした経験を拓版画にした「乗興舟」の逸話を核にして、淀川流域の地に所縁を持つ、黒川に近しい人物たちの晩年の姿が描かれる。それは、新淀川の河口に近い大阪の伝法町で生れ育った作家の富岡多惠子であり、京都で生涯を送った黒川の実父であり、もうひとり、ややオマケのようにしてだが、父の友人の母で画家の秋野不矩である。土地へのこだわりということでなら、黒川自身が育った団地のある京都の伏見は、最晩年の若冲が住んで裏山に五百羅漢の石仏群を作らせた石峰寺のあるところで、また伏見の中書島には、家を出た実父が亡くなるまで借り続けた下宿がある。
さあ大体これで、本作のプロットの骨組みは出揃っただろう。本作の魅力を挙げるなら、小説であり、随筆であり、評伝でもあるという文章を紡ぎ出す黒川の筆の操りかたの巧みさ、それに尽きよう。語り手が若冲の拓版画を鑑賞するくだりを引こう。「「乗興舟」で言うなら、若冲と大典が、京の南郊、伏見の川港から出発し、淀川を大坂・天満橋まで下っていく。これは、どういうことか? 一本の巻物として見るなら、伏見の風景は巻頭、いちばん右端に描かれており、大坂・天満橋は巻末、いちばん左端に描かれている。見る者は、まず巻頭の伏見近辺の景色を見、それを右手で巻き取ることで、順次、巻物の左側に描かれている風景へと、視野を移していく。絵のなかに流れている時間も、右から左へと移る。(略)この絵巻、墨一色の表現やのに、不思議と、午前から日暮れどきまで、ちゃんと、時間が移っていくように、風景の変化が描けてまっしゃろ。いや、墨も濃淡、使い分けてます。(略)「乗興舟」という作品は、こうして実作を目の前にすると、まことに美しい。私には、若冲という絵描きが、隣で息をしているように感じられた。」
いかがだろう。丁寧で具体的で落ち着いた語りくちは、読者を広々とした奥座敷に連れて行って座らせてくれるかのようだ。そこでは読者は、語りに耳を傾けながら自由な連想を楽しむ余裕が持てる。わたしは、六、七年前、郷里の紀州に帰省した折に、若冲の五百羅漢を見てやろうと思い立って京阪電車で石峰寺を訪ねたことがあった。ところが、赤い山門に来ると、落雷による倒木のため境内は見学できない、と出ている。あーあ。こちらはそれとは別の機会だったが、伏見を観光して、十石舟の客となったこともある。特別なことではないが、若冲たちとも、それから近年になって枚方までだが、やはり伏見から屋形船で川下りをしたという黒川とも同じような体験を持った次第だ。それから淀川である。蕪村を論じた「澱河歌の周辺」で安東次男は、淀川のことを、合流する宇治川と桂川を二本の足として、大阪湾に頭を向け仰向けに寝た女体である、とみなしたのである。この論稿は佐藤春夫に激賞されたが、もし蕪村本人や若冲がこれを聴いたらなんと思っただろう。
しかし、若冲のことをいわばダシにした、黒川創による私小説、読み終えて、どこか惻惻とくるものがあった。ちょっと淋しかった。どうしてかは、わかる。高校時代にボート部員だった黒川たちが活動した琵琶湖周辺でのことが語られる冒頭部を引き継いで、すぐに登場するのが、作家仲間であり敬愛する大先輩としてのトミオカさん、富岡多惠子である。途中から作中に顔を出す富岡鉄斎と紛らわしいので、本書ではカタカナ表記だ。トミオカさんがここで出るのは、ウツ持ちの彼女が癒しの場として琵琶湖畔のマンションの七階に部屋を持つから、でもある。ともかくも純粋培養された関西弁の使い手であるトミオカさん、そのオシャベリはそっくりそのまま再現されている。わたしは二度その謦咳に接したことはあるが、まさにこの通りだった。そしてここが私小説たるゆえん、というべきだろうが、黒川の両親の来歴が語られ、実父の話に焦点は絞られる。父は中小企業診断士という職業を持っていた。だが、自分なりの著作を書き継いでいきたいという意欲があった、という。天明伏見義民についての原稿、といったものが紹介される。父はそのために伏見の団地を出て、書斎用の下宿に暮らすことになる。適度な距離を保っての父との友人関係というのは好もしい。しかし、一九九九年十一月、実家の「かつての米屋の店先で、梁に紐をかけ、首を吊って」死んだという。もうひとりはどうしたか。「トミオカさんは、二〇二三年に亡くなった。最後の一〇年余り、元気ではあったが、ほとんど筆を折って過ごしていた。」 富岡多惠子の死が、黒川創に本作の執筆を促したのではないだろうか。「あの人と話したいな、と思うときに、もう、その人はいない。」 若冲を筆頭にして、ここに登場するひとたちがみんな、屋形船に乗って淀川を下る、そんな場面を想像した。川を下った先はどこか。それはいうまでもない。(はやし・こうへい=詩人・文芸評論家)
★くろかわ・そう=作家。一九九九年、初の小説『若冲の目』刊行。著書に『かもめの日』(読売文学賞)『国境〔完全版〕』(伊藤整文学賞・評論部門)『京都』(毎日出版文化賞)『鶴見俊輔伝』(大佛次郎賞)『彼女のことを知っている』『この星のソウル』、編著に『富岡多惠子の発言』全五巻、『鶴見俊輔コレクション』全四巻など。
書籍
| 書籍名 | 若冲、川を下る |
| ISBN13 | 9784104444144 |
| ISBN10 | 4104444146 |
