- ジャンル:翻訳小説
- 著者/編者: フランチェスカ・スコッティ
- 評者: 上原尚子
亀たちの時間
フランチェスカ・スコッティ著
上原 尚子
子どもたちに付き添われ、夏の間滞在する海辺の施設にやってきた〈わたし〉は、ロビーの修道女から、部屋の用意がまだできていないと告げられる。そこで子どもたちは帰し、スーツケースをその場に置いて、〈わたし〉は一人、最上階の展望カフェに向かう。大勢の滞在客とヘルパーさんで賑う海を臨むカフェで、〈わたし〉は突然、〈あなた〉を目にする。〈あなた〉は、十五歳の夏という危なっかしい時期を共に過ごした女友達だ。当時と違って白髪が多く首のまわりに何本もの細い輪が刻まれた〈あなた〉は、すぐ隣のテーブルに座っている。〈わたし〉は目を閉じ、そして開く。高校二年生の夏のある夜の出来事が、〈わたし〉の胸に蘇ってくる。その出来事について〈あなた〉から思いがけないことを打ち明けられ、〈わたし〉はもう一度目を閉じ、また開く。すると〈あなた〉はもうそこにいない……。
短編集『亀たちの時間』は、この「ルナ」という一編から始まる。ケアを受ける年齢となり、死を意識するようになって、心にずっと引っかかっていた過去の出来事に思いを寄せる時、ふと意識が現実から異界に迷い込む。そうした、おそらくは誰にもいつか訪れるひとときを切り取った作品だ。
本書には、十五の小説が収められている。いずれも十ページほどの短さだが、細やかな描写と詩的な表現によって綴られた物語からは、人の心の機微と人生のワンシーンが鮮やかに浮かび上がる。一編、また一編と読み進めていくと、オムニバス映画を見ているかのような感覚に陥るほどだ。そしてどの物語においても、他者との心のすれ違いや老いや死との対峙といった、生きている限り避けることのできないテーマが展開する。
表題作「亀たちの時間」では、関係を続けるか別れるかの瀬戸際にいるカップルが海辺で瀕死の亀に遭遇する。二人はなんとか救おうとするが万策尽き、何もかもがすでに手遅れであることを悟る。
「鯨のひげ」では、失跡した女性が部屋に残したチェロを引き取ったフィリッポが、この際チェロを習おうとリーザの元を訪れる。毎週土曜日のレッスンで二人の距離はぐんぐん縮まっていくが、ある時点からフィリッポは練習に来なくなる。そして決定的な出来事が起こる。
「誕生日」のテアは十二歳だ。普段は母親と暮らしているが、明日は父親の誕生日なので父と父の恋人と過ごす予定だ。英語が苦手でいつも父親をがっかりさせていたテアは、誕生日のプレゼントとして英詩の暗唱を用意している。だが、久しぶりに会って話すうちに、父を喜ばそうという思いは消えていく。
幸せな時が多く語られることはない。語られるのは、幸せが崩れていく時の哀しみや切なさだ。しかしそこに湿っぽさは不思議なほど感じない。物語はカラッとした空気に満ちている。これは、本書の大きな特徴と言えるのではないだろうか。
さらにもう一つの特徴に、現実と異界との境界があいまいなことがある。ある事情により夜中は車を運転しなければならない〈ヨシ〉には山高帽の死神が見える(「喉が渇いていて、いま水を飲もうとしている者の平安」)し、好意を持つ相手の心無い行いに衝撃を受けたリーザの足元の床はあっという間に青くなり、波が寄せ、壁が消えて鯨が現れる(「鯨のひげ」)。現実と異界との境界があいまいになる特徴については、著者であるフランチェスカ・スコッティが初めて来日した際に帯同していたという三冊の本を知ることで腑に落ちるかもしれない。その三冊とは、村上春樹の『ノルウェイの森』、小川洋子の『薬指の標本』、川端康成の『浅草紅団』だ。
スコッティは一九八一年にミラノで生まれたイタリア人作家だ。音楽を学んでいた学生時代に初めて日本を訪れて以来繰り返し来日し、京都や名古屋で十年以上暮らした経験を持つ。本書を読んでいて、どこか身近に感じるのはそのせいもあるのかもしれない。イタリアと日本、異なる文化が調和した本書ならではの世界を知ったことで、目の前の景色がいつもとは違って見えた。(北代美和子訳)(うえはら・なおこ=翻訳者・ライター)
★フランチェスカ・スコッティ=ミラノ生まれの作家。短編集Qual―cosa di simile(『なにか似たようなこと』)でRenato Fucini賞を受賞しデビュー。著書にL’origine della distanza(『隔たりの生まれるところ』)、Il cuore inesperto(『未熟な心』)など。一九八一年生。
書籍
| 書籍名 | 亀たちの時間 |
| ISBN13 | 9784768459812 |
| ISBN10 | 4768459811 |
