『アンチ・アンチエイジングの思想』出版記念
上野千鶴子×國分功一郎トークイベント
6月3日(火)、ジュンク堂書店池袋本店8階イベントスペースにて、上野千鶴子著『アンチ・アンチエイジングの思想ボーヴォワール『老い』を読む』(みすず書房)の出版を記念し、上野氏と哲学者の國分功一郎氏のトークイベントが催された。会場には参加者60人ほどが詰めかけ、ネット中継も繫がれた。再構成の上お伝えする。
本書は、ボーヴォワール第二の主著とも言われる大著『老い』を軸にし、現代文明における老いの表象と現実に鋭く切り込んでいく著作だ。「老いは文明のスキャンダルである」――頭に鳴り響くこの惹句を引き受け、上野氏は「人間、役に立たなきゃ、生きてちゃ、いかんか」と応答する。自立した主体の活躍を至上命題とする現代文明と、生きることに価値を求めること自体を退ける上野氏の思想との対決が本書の読みどころだ。
イベント冒頭で上野氏は、「自己決定、自己責任っていやな言葉だね」と語る。「生まれることに自己決定ってなかったでしょう? だったら死ぬことにもないじゃない? ――と言うと、賢しげな人たちは「生まれることに自己決定はなかったから死ぬことくらいには欲しいのです」って仰るんです」。
二人は「自己決定」という観念の自明さに疑いを投げかける。上野氏が持ち出すのは「強制的自発性」という概念だ。近年の刑法改正で「不同意性交等罪」が成立したが、同意か不同意かという意思表示の境界は、実はクリアなものではない。仮に言葉や態度の上では相手の要求を受け入れたとしても、それが要求を拒んだときに想定される危害を避けるためのものであるなら、この意思表示は自発的なものとはいえないからである。相手によって無理やり挑発された自発性、これが上野氏の言う「強制的自発性」である。
介護の場面はこれが現れる典型だ。「共同意思決定というのが介護現場で流行りなんだけれど、忖度とか、声の大きい人に引っ張られるとか、そういうことがありますから」と上野氏は語る。「ACP(事前ケア計画)というのも医療現場で大流行していますが、これもいやなんです。厚労省がニックネームを募集して「人生会議」というのになったんですが、医師の名郷直樹さんはズバリ「人生会議は人生絶望会議になる」と言っていますよね」。
同じ事象を國分氏は「非自発的同意」と名指す。カツアゲや性暴力においては、言葉や態度で「同意」を示したからといっても、それが必ずしも自発的だとは限らない。
これらの概念が反照するのは、「意思決定」という言葉に潜む冷たさ・残酷さだ。「意思っていうのは常に一つの切断なんです」と國分氏は言う。それまでの連続性を敢えて無視して、自由な行為の始まりを宣言する。そうした切断こそ意思決定に他ならない。
國分氏は「意思決定支援」に対抗して「欲望形成支援」を掲げている。「意思とは対照的に、欲望はずっとビターっと続いています」。医療のプロは患者に選択肢を示すことで、本人も自覚できていなかった欲望を形成する手助けをするべきだというのだ。
続いて上野氏は、主体と自由を奉ずる実存主義者と対比して、ボーヴォワールは偉大な人だと語る。「彼女は偶然を必然に、必然を選択に変えた人。私が英雄的だなと思う人ってそういう人ですよね。池袋で高齢のおじさんに自分の妻と子を轢き殺された方がいますけど、彼は「こういう悲惨な事故を無くすために自分の使命を引き受けたんだ」って言うわけですよ。全く理不尽で偶然の出来事を、自分はなるべくしてこうなったんだと引き受けて、更にそれをミッションとして自ら抱く。こういう人々ってやっぱりいるんですよね」。
國分氏もこのように述べる。「中動態なら、人がある過程のなかに放り込まれていて、それをうまく引き受けた時に、自分に与えられた偶然をうまく使えるということが考えられる。これこそが自由につながっていくのだ、という思想が中動態のなかにあるのだと思います」。偶然的なものを引き受けるその葛藤においてこそ、自由は立ち上がるのである。
さらに上野氏は、ソシュール言語学に始まる構造主義思想が「主体」概念の死を告げたことに触れる。それに続くポスト構造主義において、「エージェンシー(行為体)」概念が登場した。
「完全に自由な主体でもなく、完全に構造に制約された隷属でもない。これがエージェンシーです。ジュディス・バトラーは「私が言語を語るのではなく、言語が私を通して語る」と言います。まさしく中動態ですよね。私たちは意思とか主体とか能動性からしか考えられなくなってしまっていますが、ポスト構造主義がエージェンシーを何とか救い出したのです」。
上野氏は続ける。「私たちは「主体」という呪いに、まんまとひっかかってしまっているのです。リベラリズム法学が前提としている「主体」というのがいかに抽象的か、という問題がここにはあります」。
國分氏はそれを「虚構」とすら表現する。「確かに、個人という概念は人権を守るために極めて重要です。しかし他方でそこには限界もある」。法学は、主体というフィクションとその通時的同一性を前提しなければ犯罪を裁けないので、これを導入しているに過ぎない。「実際の人間の気持ちは絶えず移り変わっているのだから、法学の論理をそのまま生活場面に持ってくるのは、悪しき拡張です」。
そして話題は、著書273頁における辺見庸の引用に及ぶ。辺見は、介護というものが悲哀と憤怒を抱えていることを、激烈な筆致で表現した。上野氏はそれを承けて言う。〝要介護になれば、わたしたちは無力化される。無力な、というのは、赤ん坊なみの子ども扱いされる、ということだ。だが年寄りは子どもではない。…認知症の年寄りはよく怒る。…そのつど彼らのプライドが傷付けられるからだ。〟
――これは、制度論者としての上野氏が自身の限界を告白した部分なのだという。「制度はこの悲哀と憤怒に届かない。制度は心までは救ってくれないんです」。こうした、社会学的な視座に留まらない上野氏の〝批評的〟な目を國分氏は称賛した。
最後に二人は会場からの質問を受け付けた。〝孤独死は怖くないのか〟という質問に上野氏は、「死んだあとなんか怖いことも面倒なこともないじゃないですか。折角一人で暮らしているのに、臨終のときに誰かが来るなんて、意味ないじゃん。要介護認定されれば週二日は人が様子を見に来るので、私は72時間以内に発見されたらいいと思っています」と語った。
〝老いていく親や祖母とどう向き合っていけばよいか〟という質問に対しては、「介護保険があれば、あなたが遠くに離れていても、第三者にお願いしてちゃんとお世話していただけます。ただ家族でなければ代えられない役割があるから、まずはタブレットを差し上げるといいですね。一日一回、10分でもいいからちゃんと顔を見せてあげる。でも今、介護保険は存続が危ないんです。使えなくなったらやばいですよ」と答えた。
また〝杉田水脈元衆議院議員とわかり合える気がしない〟との質問には、「彼女はすごくかわいそうで仕方ないの。男にも口にできないことを女に言わせて女叩きをするというミッションを背負わされている。濵田真里さんという研究者が初めて日本の女性政治家のセクハラ体験の調査をしたところ、出るわ出るわ。しかも、与党の政治家はインタビューに一切応じてくれない。女性政治家には、人に話せないことがいっぱいあるんです」と見解を述べた。
◆6月6日号3面にて、中村彩氏による『アンチ・アンチエイジングの思想』書評を掲載しています。