2026/01/09号 6面

これがそうなのか

これがそうなのか 永井 玲衣著 石田 月美  言葉は世界に溢れていて、見て見ぬふりでもしなければ、いつか私は言葉にズタズタにされるのではないかと思ってきた。ヘイトスピーチに流行語、または嫉妬に憎悪。そして絶望。共感できない言葉や、共感できるからこそ腑をえぐるような言葉におびえては、目をつぶってきた。だから、『これがそうなのか』の著者、永井玲衣があまりに生肌で言葉とかかわる姿に感服しながら心配していたのも事実である。  本書は永井の四作目のエッセイだ。二部で構成されており、「第一部 問いはかくれている」では、日常よく使われる言葉の前に立ち止まり、そこにかくれた問いを探究している。「第二部 これがそうなのか」では、本に育てられた永井が世界と、他者と、対峙したとき見えたものが描かれる。  第一部で扱われる言葉はどれも見慣れたものだが、永井は軽快なタッチで息をのむような問いを提示する。なかでも、とある百貨店で「普通って何なんだろう」という問いで哲学対話をしたときのエピソードは驚嘆しつつ笑ってしまった。永井自身も「『普通って何』って普通じゃん」と思わずつぶやいたほど、珍しくもなく使い古された問いである。しかし、ある売り場の担当者は客から「蛇口を探しているんですが。あの、普通の蛇口です」と尋ねられたらしい。確かに私も言ってしまいそうだ。担当者を困惑させるとわかっていても、欲しいのは「普通」の蛇口。そんなあまりにも地味で、目立たず、小さな、それこそ普通の言葉を永井は問う。さらに、「かっこよすぎて普通に死んだ」という言い回しからは、「普通」という大袈裟ではない否定がつくことによって最も強調の言葉として機能する、と考察する。見過ごしてしまいそうな言葉にかくれた問いが頁をめくるたび鮮やかに発見され、読者は世界の奥行きを感じざるを得ないだろう。  けれど本書の白眉は、表題にもなっている第二部の「これがそうなのか」だ。「初めに本があった。わたしの存在よりも、あらゆる存在よりも先に、本があった」とする永井は、本が現実に先立っていたという。子どもの頃にわけがわからないけれど魅了された一冊、ノートに写し書いた一節、印象深い言葉の断片は、のちの永井に「これがそうなのか」という感覚をもたらす。しかもそれは、大人びた恋の官能などではない。あらそいがあり、共に生きることが苦手で、弱くてみっともない、この不確かな世界そのものだった。永井はカフカの書く不条理を読み、のちに本の外の世界のわけのわからなさに触れ、「これがそうなのか」と思う。小学生の頃に『はせがわくんきらいや』という絵本を読み、のちにそれが森永ヒ素ミルク中毒事件をもとにしたものであることを知り、そして『障害者差別を問いなおす』という重度の脳性マヒ者の立場から描いた詩に出会う。「これがそうなのか」という思いは変容していく。  私は、世間の評判に反して、永井という著者は骨太な文章を書くと感じている。これまでの作品も、胆力がなければ投げ出してしまうような題材を真っ向から書き切っていた。文体がすべらかで美しいため、傷つきやすく繊細な文章を書くと思われがちだが、永井は流した血の一滴さえも無駄にせず考え抜く著者だ。それが他者の流した血であればなおさら。だからこそ心配でもあった。その太い骨のうえにまとったやわらかな肌が。言葉を諦めてしまうほどズタズタに切り裂かれはしないかと。  だが、そんな老婆心をはるかに超えて永井の新作はやってきた。――「本を読むことも、対話の場をつくることも、言葉に出会うことだ」「言葉とわたしは向かい合い『よかった、こんなにもわけがわからなく、うつくしいものがこの世にあるのだ』と思ったものだ。文字通り、わたしは『助かった』と思った。いまも思う」――。私のおびえや怖れなど、永井はとうの昔に越えてきたのだろう。私もきっと言葉に助けられる。いまだたちすくむ私に、本書は希望のあかりを灯す。  いつか永井に会ったら聞いてみたい。「あなたと対話がしたいのだけれどいっしょに座ってくれませんか」と。どんな表情をするのか想像もつかない。けれど、腰をおろす姿だけははっきりと見える。(いしだ・つきみ=物書き)  ★ながい・れい=哲学者。人びとと考えあい、ききあう場を各地でひらいている。第一七回「わたくし、つまりNobody賞」受賞。著書に『水中の哲学者たち』『世界の適切な保存』『さみしくてごめん』など。一九九一年生。

書籍

書籍名 これがそうなのか
ISBN13 9784087700138
ISBN10 4087700135