2025/09/19号 5面

ハーモニー

〈書評キャンパス〉伊藤計劃著『ハーモニー』(和田七望)
書評キャンパス 伊藤計劃『ハーモニー』 和田 七望  伊藤計劃の『ハーモニー』の読後感をあえて記号的に表すなら、それは「痛み」という言葉に還元できる。読む者の心を引っ搔くような一節一節の連なりによって紡ぎ出されたこの物語は、「優しさ」の本質や「『私』とは何か」を問い直し、読み終えたあとも、記憶の底から私たちの心を揺さぶり続けるのである。  本作の舞台は、優しさと思いやりが人々を圧迫する未来だ。この世界に生きる人々は、生きているだけで価値を認められ、肯定され、そして徹底的に管理される。人々の身体に埋め込まれた「WatchMe」と呼ばれる医療用分子によって病気は駆逐され、飲酒や喫煙などの不摂生は許されない。なぜなら人々は、「自分自身を『公共的身体』として大切にすること」を社会全体から求められているからだ。物語は、そんな空気に息苦しさを覚えた少女たちの「反逆行為」から端を発し、展開していく。  本作で描かれているのが「完璧な調和に向かう世界」なら、現代社会は「上澄みの調和を保っている世界」だろう。私たちは、誰かと調和するために他の誰かを敵にしたり、社会に調和するために本当の想いを隠したり、誰もが少しずつ傷つきながら生きている。その中で、SNSの片隅に愚痴を投げたり、気の置けない相手と語らったりして溜飲を下げ、傷と折り合いをつけながら日々をやり過ごす。しかし、『ハーモニー』の世界の人々は、そうした小さな痛みすら看過せず、最終的に、「自分自身を構成する根源的な要素」に永遠の別れを告げることになるのだ。その究極的な帰結は、この一節に色濃く現れている。 さよなら、わたし。 さよなら、たましい。 もう二度と会うことはないでしょう。  「反逆行為」の首謀者である少女ミァハは、「WatchMe」を「人間の体を言葉に還元してしまうちっぽけな分子」だと嫌悪し、それに支配されることを拒む。しかし、『ハーモニー』の物語を奏でる言葉の数々は、世界の本質を容赦なく「言葉に還元」する。「なぜ人間は存在しているのか」「『私』とは何なのか」と、完璧な調和に向かって進む世界が抱える致命的な矛盾を抉り出していく。そのたびに読者は、ミァハが「WatchMe」を嫌悪した気持ちを痛いほど理解できるようになってしまうのだ。「言葉に還元」されたものは、もう曖昧模糊とした概念には戻らない。その取り返しのつかなさに対するかなしみこそが、本作が内包する「痛み」の根幹なのだろう。   ミァハたちが生きる世界で人々が駆逐した「痛み」を始めとする感覚の数々を、私たちは今、まだ感じることができる。それは、この世界が完璧に調和していないこと、それぞれが「自分自身」を生きていることの現れだ。ページを捲るときに震えた指先、浅くなった呼吸、速くなった拍動、言葉にならない感覚全てが、紛れもない自分自身のものであってよかったと、本作を読み終えたときに思うだろう。そのときのあなた自身の情動を、どうか大切に抱きしめていてほしい。本作から私が感じた「痛み」と、あなたが感じる「痛み」の間には、きっと大きな隔たりがある。安易な言葉に均されえないその感情こそ、あなたが「あなた自身」であることを示す証となるはずだ。

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