2026/03/20号 5面

とんでもない

とんでもない 尾崎 一雄著 水原 涼  尾崎一雄を読むのは彼の人生を読むことだ。彼の作品のほとんどが、自身を投影した私小説家を主人公とし、家族や友人、同業者たちとの関係を軸に展開していく。彼らの言動や庭の草木、虫、友と交わす会話や手紙、かつての自分が書いた作品。彼は何を見ても何かを思い出し、回想のなかに意識を遊ばせる。  尾崎は同じ出来事を繰り返し書くことを厭わない。だから彼の作品を読んでいると、このエピソードは以前読んだ、と思うことがある。しかし、違う作品なのだから、そのエピソードが作中で果たす機能は異なっているし、出来事を振り返る者――書き手/語り手は、前回その出来事が書かれてから過ぎた時間のぶんだけ変化してもいる。親戚のおじさんの問わず語りに耳を傾けているときの感覚に近い。私たちは次第に、事実だけではなく、おじさんの以前の語りをも想起しながら聞くようになる。こうして作中の〈私〉は作者から遊離し、現実とよく似た、しかし独立した世界が構築されていく。  長篇小説『とんでもない』は、一九六一年の夏から半年間にわたって『産経新聞』で連載されたが、今回の刊行に至るまで、単行本や全集に収録されていなかった。しかし、登場するのは私小説作家・多木とその一家をはじめ、妻を早くに亡くした友人の島木や、戦災孤児として育ち、バッグのデザイナーとして地歩を固めつつある酒井青年など、尾崎作品の読者にはおなじみの人物ばかりだ。はじめて読むのにまったくの未知の小説ではないような気がするのは、その、尾崎一雄という世界観の確かさによるもののように思う。  短篇を得意とした尾崎としては珍しい長篇小説である本作は、著者の現し身である私小説家・多木ではなく、作家志望の青年・啓作の姿から語り起こされる。彼は東京駅でスリに遭って路銀を失い、福岡まで徒歩で帰ろうとしている。ちなみに、本書は新聞で連載された当時の区切りを残すかたちで編集されているのだが、啓作の旅路が描かれた章は、全十七回に及んでいる。当時の読者はそれだけの日数、彼の姿を見守っていたということだ。啓作が多木の家を訪れるのを読んだとき彼らは、この青年の無謀な旅が、尾崎の構築してきた作品世界と接続されるのを見て、ホッとした気持ちを抱いたのではないか。  作品の中盤、多木夫妻は啓作のために、近在の農家で住み込みの仕事を探してくる。こうして、平穏無事な多木の日常に広がったさざなみは落ち着いた。しかし終盤にいたって啓作は、自らその暮らしを捨ててしまう。  そこではじめて、スリに遭う以前の啓作の過去が明かされる。戦中を大陸で過ごした啓作は、引き揚げの途上、父とともに嵐の海に投げ出された。溺れそうになった彼は思わず父の足を摑んだ。しかし父は息子を蹴飛ばしたのだという。その直後、彼は、父でない何者かの手によって岩の上に引き上げられた。それ以前から抑圧的で粗暴な父親に反感を抱いてはいたが、この出来事で啓作は深く絶望する。〈俺にとっての痛恨事は、蹴放したのが他人ではなくて肉親だったということだ。血のつながりと心のつながりとは、何の関係もないのじゃないか、という疑いの種を胸深く播かれたことだ。〉  血のつながりと、心のつながり。本書では、酒井青年の独立のために多木が尽力したエピソードが描かれる。そのモデルになった人物が、「おじさんは、僕の頼みを一度も断ったことがなかったなあ」と呟いたとき、尾崎の妻は、「それが父というものよ」と返したそうだ。本書では、尾崎一雄という小説家の人生観が、対称的な価値観と向き合った日々が描かれている、といえるだろう。  人生観といえば、「尻に火がつかないと、俺のエンジンはかからない」というのが多木の口癖だ。〈借金が出来ると、彼は尚更働き出す。〉そして尾崎は、本作の原稿料で借金を完済したという。本作がこれまで単行本化されずにいた理由はわからないようだが、もしかしたら、原稿料で十分に〝尻の火〟を消しおおせたからかもしれない。(みずはら・りょう=作家)  ★おざき・かずお(一八九九―一九八三)=小説家。早稲田大学在学中より志賀直哉に師事。短編集『暢気眼鏡』で第五回芥川賞受賞。著書に『まばろしの記』『あの日この日』(ともに野間文芸賞)など。一九七八年文化勲章を受章。

書籍

書籍名 とんでもない
ISBN13 9784394980209
ISBN10 4394980208