『共同幻想論』に挑む
鹿島 茂著
四方田 犬彦
わたしの記憶によれば、吉本隆明の『共同幻想論』を最初にとりあげ評価したのは、三島由紀夫であった。彼は一九六八年、雑誌連載中の『小説とは何か』のなかで、吉本が引用した『遠野物語』の同じ個所を引用し、そこに文学の本質が横たわっていると説いた。また吉本が死を個人のものである以上に、共同体の内側の出来ごとであると指摘していることにも強い共感を示した。今読み直してみると、三島はいわゆる吉本用語をいっさい用いず、自分の語彙だけを用い、三島ヴァージョンの吉本を造り上げ、それを評価したのである。
一九六八年に高校一年生であったわたしはどうだったか。わたしには『共同幻想論』の本文よりも、そこに引かれている『遠野物語』が面白くてたまらず、残余の論考は早々と読み飛ばすと、ただちに水木しげる妖怪漫画に回帰した。どうして吉本の叙述を読み飛ばしたのだろう。その不愛想で生硬な悪文についていけず、説明抜きにいきなり断言が連続してしまうといった論理運びに馴染めなかったからだ。だが今になって思うのは、彼がつねに「起源」という観念に囚われていたからではなかったか。
『言語にとって美とは何か』の初めの方に有名な挿話がある。海を始めて見た古代人の吃音的叫びが、「うみ」という語の起源だというのだ。まさかねと思わずいいたくなるが、この挿話を見てもあきらかなように吉本はいつも起源を求めていた。起源にこそ真理が宿るという信念を固く信じていた。ルソーからダーウィン、マルクス=エンゲルスまで、近代の知識人が、言語、人間、家族、私有財産といったものの起源を論じるために、膨大な知力と情熱を費やしていたことを思い出してみよう。「禁制」の、「対幻想」の、「共同幻想」の起源とは何かと真剣に問う吉本は、わたしにはこの系譜の最後の裔であるように思われる。そしてわたしは、この起源や出自の探求というのが苦手だった。世の中はそんなものとは関係なく、いつもすでに始まっているのだという気持ちを実感として生きていた。こう考えてみると、高校時代の自分がどうにも『共同幻想論』に馴染むことができなかった原因が、うっすらと理解されてくる。
刊行から半世紀以上が経ち、『共同幻想論』は戦後日本の批評史にあって古典と称されるに到った。とはいえその難解さが充分に解読され、思想史のなかで文脈化されたかというと、とてもそうとは思えない。わたしの知るかぎり、この書物に接近する者には、おおまかにいって三つの通りのタイプがあった。
ひとつ目は、無視を決め込む大学教員たち。彼らにとって自分の専門領域と方法論とは、教育という労働のための労働資本であり私有財産である。吉本のように、何でも知ってやろう、何でも自分なりの結論を出して見せようという素人の外来者は、境界を侵犯する脅威としてもっとも警戒される。
二つ目は既存の人類学や神話学、宗教学と無理やりに接続しようとして挫折し、吉本を道化的に揶揄してしまうタイプ。不幸なことに、『人類学的思考』の山口昌男がそうだった。
三つめは吉本に心酔し、彼の著作を謳いあげてしまうタイプ。この手は文章にヤマパーレン、つまり〈 〉という記号を病的なまでに頻発するので、容易に識別することができる。吉本の考案した隠語のテニヲハを入れ替えて、すべてを理解したつもりになっている輩だ。こうした信者たちを大量発生させてしまったところに、吉本思想の弱点があるのだが、今回はそれには触れまい。
鹿島茂はこの三者のどれにも属していない。彼は不用意に社会学や神話学に言及もせず、吉本用語に牽引されることもない。困難は分割し、個々に解決してから統合すべしというデカルトの方法に導かれながら、ゆっくりと落ち着いて、自分の言葉で『共同幻想論』を読みほぐしていこうと試みる。一匹の鶏をインド人ならカレーに、イタリア人なら赤ワイン煮込みにするように、エマニエル・トッドの家族論という手慣れた調理器具を手に、この大著に向かい会う。吉本の提唱する三通りの「幻想」の起源と展開を、サザエさん一家の物語に置き換えて解説したかと思うと、『古事記』における姉弟神の誕生をコロナ・ウイルス騒動に託けて説明してみたり、みごとな解説者ぶりを披露している。スターンの『トリストラム・シャンディ』に似て始めも終わりもいっこうに現われようとしないその書きぶりは、さながら新聞の連載小説である。
鹿島茂が『共同幻想論』に取り組むというのは、彼のそれまでの著作を考えると当然であったとわたしは考えている。吉本論の前著『吉本隆明1968』は、誠実にして通過儀礼的な意味合いをもった書物であった。といっても全共闘運動に係わっていた著者の時代への郷愁が、舞台装置として設えられていたからではない。吉本の『高村光太郎』論の肩越しに、みずからの家庭的出自と留学体験への反省的省察とが行間からうっすらと滲み出てくる点に、感動的な読後感を得たからであった。今回はどうだろうか。半端な気持ちで接近することを拒絶するこの難解なテクストを前に、論者はいろいろと作戦を練ることを強いられた。
この書物を博士論文として提出する学生がいたとしたら、自分はけっしてそれを受理しないだろうと、鹿島茂は書く。「幻想」を三通りに分類するための手続きが曖昧である。加えて、そもそも論文の全体を眺望できるような見取り図が、最初に差し出されていないからだ。ヴィーコならばそれでもいいかもしれないが、デカルトの徒としては承服できない。
若き日の吉本は、イエス・キリストなどという人物は実在していなかったと説くトンデモ本に基づいて、「マチウ書試論」を執筆し、人間が生きているかぎりどうしても逃れることのできない「関係の絶対性」という考えに到達した。『共同幻想論』においても、今日の考古学や人類学の立場からすればトンデモない認識をもとに記述されている部分がないわけではない。だが前提とするものがいかに間違っていようとも、吉本隆明はなぜ、あのようにすばらしくも輝かしい結論をそこから引き出すことができるのか。著者はこの問題に向かい合う。そこで吉本の幻想論の信憑性や妥当性についてはいっさい判断を下さず、もっぱら彼の叙述のスタイルだけを追跡することに決める。
鹿島茂はあるとき大発見をする。『共同幻想論』ではいきなり結論が提示され、その後にその結論に向けて、あたかも空欄を埋めていくかのように論理が構築されていくのだ。最終部分が大団円の結論で終わらず、なんとなく尻窄みな印象を与えるのは、書物の冒頭に置かれた序文こそが結論に他ならないからである!
この大発見を鹿島は、吉本が何よりもまず詩人であるという事実に原因を求めている。詩の方法とは、「いきなり結論」を出してしまうことだからだ。さりげなくこう書きつけたとき、鹿島茂は長らく読み続けてきた吉本に距離を置き、掛け値なしの散文家である自分への矜持を知らずと披露している。彼は山本哲士にヒントを得て戦略を立てる。『共同幻想論』をその最後の章から逆さまに読んでみようではないか。最初から順番に読んでみるのは、この作業が終わってからでもいいではないか。
このトンデモ方法は、西欧の論者が東洋のテクストを前にしてしばしば採用した(たとえば道教経典を論じるユング)ものであるが、今回の著作ではそれなりに効果的であったと思う。『八犬伝』の曲亭馬琴のような講釈師ぶりだ。だがそればかりではない。鹿島茂が紛うことなき散文主義者であるとともに、『人間喜劇』のバルザックへの大いなる帰依者であることも忘れてはならない。人間とは徹底して世俗的存在であり、嫉妬と羨望、性と金銭に支配されているという世界観のことである。本書の最終部分では、吉本がそもそも三体の幻想を構想するにあたって契機となったのが、世俗の人生において体験した恋愛事件ではなかったかという推測までが、たらりたらりとなされている。そうか、『共同幻想論』とは「共同ゴシップ論」であったわけか。
世に『歎異抄』という難解な書物をめぐり、毎年のようにさまざまな解説書が刊行され、それなりに版を重ねている。若き日より『歎異抄』に心酔していた吉本隆明の著した『共同幻想論』にも、そのような書物が次々と執筆されてしかるべきであろう。本書は神格化とも秘教化ともまったく無縁な場所にあって、徹底して世俗的に書かれているのだが、それが契機となり、対象である吉本の著作が読み直されることを、書評者は期待したいと思う。(よもた・いぬひこ=批評家・比較文化学者・作家・映画史家)
★かしま・しげる=フランス文学者・評論家・作家・明治大学名誉教授。著書に『馬車が買いたい!』(サントリー学芸賞)『子供より古書が大事と思いたい』(講談社エッセイ賞)『職業別パリ風俗』(読売文学賞)など。書評アーカイブサイトALL REVIEWSを開始。神田神保町に共同書店PASSAGEを開店する。一九四九年生。
書籍
| 書籍名 | 『共同幻想論』に挑む |
| ISBN13 | 9784480815910 |
| ISBN10 | 4480815910 |
