「生保レディ」の現代史
金井 郁・申 琪榮著
安藤 究
『吾輩は猫である』には、本書の理解の助けとなるような生命保険の勧誘に関する描写がある。例えば主人公の「珍野苦沙弥」の妻は、姪に次のような愚痴をこぼす(傍点は評者)。「ええ、すると会社の男が、それは死ななければ無論保険会社は要りません。しかし人間の命というものは丈夫なようで脆いもので、知らないうちに、いつ危険が逼っているか分りませんというとね、叔父さんは、大丈夫僕は死なない事に決心をしているって、……」(岩波文庫版、1990年発行)
本書は20世紀半ば以降の生命保険産業の展開を、生命保険の営業職という労働において理解しようとする労作である。『吾輩は猫である』の引用箇所は、漱石の時代と本書が対象とする時代の、生命保険営業の相違点と同一性を示している。
相違点は、営業職のジェンダーである。保険の営業職員が自明的に「会社の男」と描かれているように、第二次世界大戦前の日本の生命保険の営業は、もっぱら男性によって担われていた。ところが戦後に生命保険の営業職員は急激に女性化し、さらに20世紀末には、ライフプランナーという大卒男性営業職員も一定程度の存在感を示すようになった。
本書は、20世紀後半以降の日本の生命保険市場の発展は女性の営業労働に依ると理解する(「生保レディ」モデル)。保険会社が戦後に女性営業職員を中心とした背景としては、「護送船団方式」の金融行政、GHQ、労働組合、デビット・システム(地区月掛け制度)の採用など複合的な要因が、手際よくまとめられている。そうした女性営業職が形式的には「正規雇用」にもかかわらず、実際上は「自営的雇用」型の雇用形態となった経路も示される。その上で、女性保険営業職員を主力とする生命保険会社(「伝統型生保」)と、大卒男性営業職員を中心とする生命保険会社(「後発型生保」)の比較が、営業プロセスだけでなくキャリアパス・リクルート方法・報酬制度などについても行われる。
他方で、漱石の時代でも本書が対象とする時代でも共通しているのは、生命保険の営業という労働(労働過程)の特質である。生命保険という商品は死や疾病に関わるが故に、伝統型/後発型生保にかかわらず、『吾輩は猫である』の描写のように、その労働過程は潜在的な顧客のニーズ喚起から開始される。成約後も継続的な顧客との関係維持が必要であり、本書はこうした労働過程を、「定期的な(見込み)顧客との接触と、生命保険販売を超えた包括的で顧客に密着した関係構築の努力」(315頁)である「顧客ケア」と把握する。
本書によれば、「顧客ケア」は生命保険営業の中核であるにもかかわらず、制度的に職務と位置づけられていない「不可視化された労働」である。またそれが女性によって担われてきたことにもよって(「生保レディ」モデル)、「顧客ケア」という労働の経済的・社会的な評価は低いとされる。「後発型生保」の男性ライフプランナー営業職の高い所得も、「顧客ケア」のスキル自体に対する直接的な評価ではない。「顧客ケア」という本書の概念化の意義はこうした「見えない労働」を可視化させる点にあり、労働研究におけるスキル評価の枠組みの再検討も促されている。
評者は以前、戦後日本で男性よりも女性の営業職員の営業成績が良好だった要因を、その時代の生命保険の契約者(商品の買い手)のジェンダー化されたライフコース・パターンとパーソナル・ネットワーク構造の変化から考える試みをおこなったことがあったので、「生保レディ」モデルの成立過程に関する本書の企業側(商品の売り手)の分析は特に学ぶことが多かった。
本書はその他にも多くの刺激的な議論を含むが、「生保レディ」モデルの労働や大量離職に関する評価にはやや疑問も残った。従来「生保レディ」モデルはその高い離職率で非効率的な経営と見なされてきたが、それが企業には合理的な営業職選別機能となっていたことや、「顧客ケア」には営業職員の個人的資源が投入されるシステムとなっていることが、企業には効率的な仕組みであったと本書では評価される。ただ他方で、「後発型生保」の大卒男性営業職員というモデルが、「伝統型生保」の顧客の満足度が低いという市場調査の結果に着目して差別化のために採用されたとも紹介されている。高学歴男性営業職員のコンサルタントモデルがこれまで機能してきたことに鑑みると、そうした市場調査データに信憑性がなかったわけではないだろう。では、何故に「伝統型生保」の顧客満足度は低かったのか。その低い満足度が、営業職員の高い離職率や顧客管理コストの営業職員への転化による契約管理体制の不十分さにあるとすれば、一概には合理的と言えないように思われた。ただこの疑問も、商品の買い手側も考慮した場合のものかもしれない。
本書は、様々な種類の文書資料やインタビューデータに加えて、参与観察データ(後発型生保の研修)も用いられた、労働力の女性化の研究に一石を投じる重要な成果である。(あんどう・きわむ=名古屋市立大学教授・家族社会学・ライフコース論)
★かない・かおる=埼玉大学大学院教授・労働経済論・ジェンダー論。共編著に『フェミニスト経済学』など。
★しん・きよん=お茶の水女子大学教授・ジェンダーと政治・フェミニズム理論。
書籍
| 書籍名 | 「生保レディ」の現代史 |
| ISBN13 | 9784815812140 |
| ISBN10 | 4815812144 |
