マテニ10号 上・下
黄 晳暎著
相川 拓也
民衆のあいだに煙突が屹立し、それを圧倒するような機関車を描いた版画に、「マテニ10号」という太い題字が印象的な書物である。「マテニ」とは、第二次世界大戦末期に朝鮮半島北部の山岳路線で導入された蒸気機関車の呼称である。マテニ型蒸気機関車は、その後の朝鮮戦争でも軍需物資の輸送に使用されていたが、そのうちの一台が、現在の軍事境界線近くに放置されたうえで破壊されたマテニ一〇号である。その機関車は、朝鮮半島の南北分断を象徴する遺物として二〇〇四年に韓国で文化遺産に指定され、現在は非武装地帯を望む臨津閣で保存されている。
この標題が示すように、この小説の物語の中で重要な役割を果たすのが鉄道である。朝鮮の鉄道は、一九世紀末から続いた列強の勢力争いの末、日本が敷設権を独占する。朝鮮半島を南北に走る京釜線や京義線が敷設されるのは、日露戦争前のロシア・日本間の緊張の中でのことだった。『マテニ10号』の物語内時間は、朝鮮に鉄道が敷かれていく日露戦争前後から二〇一五年までの約一一〇年にわたっている。
作者の黄皙暎は一九四三年、旧満洲国・新京(現在の中国・長春)に生まれた。軍事政権期から民主化運動や労働運動の現場に身を投じ、権力を持たない民衆の側からの物語を長年にわたって紡いできた作家である。出世作である一九七四年の短篇集『客地』(高崎宗司訳、岩波書店)、南北分断とイデオロギーの対立による悲劇を扱った『客人』(鄭敬謨訳、岩波書店)などの代表作から、自身の生涯を韓国現代史と重ねて語った自伝『囚人』(舘野晳、中野宣子訳、明石書店)、経済成長に伴う格差の中で生きる人々に焦点を当てた『たそがれ』(姜信子、趙倫子訳、クオン)といった近作まで、日本語で読むことのできる作品も多い。
『マテニ10号』は、二〇一四年初夏から二〇一五年夏にかけて、不当解雇の撤回を求めて、発電所の煙突の上で高空籠城をおこなった工場労働者イ・ジノの物語から始まる。煙突やクレーンなどを利用した高空籠城は、不当な処遇を受けた労働者たちが抗議の意志を示し、社会的な関心を呼び起こすための方法である。高空籠城生活の中で、ジノは空のペットボトルに自分にとって大切な死者たちの名前を書き、その霊魂と通じあうことで過去を呼び起こす。三代にわたって鉄道員を務めたイ・ベンマン、イ・イルチョル、イ・ジサンというジノに連なる男系一族の物語や、イルチョルの弟で社会主義者のイ・イチョルを中心とする植民地下での革命運動の物語などが、死者たちとの記憶を媒介として流れでてくるのである。
小説の語りは、ジノの高空籠城、ジノの父祖たちの実直な鉄道員としての生活誌、イチョルが身を投じた革命運動の闘争過程という三つの要素を中心として、そのあいだを自在に横断しながら、一〇〇年あまりにわたる重厚な物語を形作っていく。本作を形作るエピソードの多くは、それが作中の人物の誰によって語られ、継承されたものであるのかが明らかにされている。また、イチョルとその同志たちの革命運動は、世界を新たに認識するための理論や知識を伝え、闘争を鼓舞する言葉を共に読み、ノートに書き写し、冊子やビラの形で複製し、それを必要とする人たちに届けることの積み重ねとして描かれる。『マテニ10号』の中での言葉は、ジノの高空籠城の時空間に流れ込む死者たちの記憶を通じて、現在に連なる過去の物語=歴史を編み上げ、伝承していくものとしてある。
本作の原著の標題を直訳すると「鉄道員三代」となる。作家自身が刊行時(二〇二〇年)の記者懇談会で語ったとおり、この標題には植民地期を代表する長篇小説である廉想渉の『三代』(一九三一年。日本語訳は白川豊訳、平凡社)を継承する意識がはっきりと見られる。資産家一族の没落の物語に、地下活動として展開する共産主義運動が交錯する『三代』の構成は、『マテニ10号』にも形を変えて引き継がれている。そのうえで黄皙暎は、鉄道や工場で働く「産業労働者」たちを物語の前面に据えたことの意義を強調する。これまでの朝鮮・韓国の小説で主題的に取り上げられることが少なかった、産業化のただ中で働く人々の生を描くことが、本作の主眼だったということだろう。
この意識はおそらく、『マテニ10号』の物語的現在である二〇一五年の状況とも関わっていると考えられる。本作のイ・ジノのモデルと言えるのが、勤務していた工場の撤収と労働者の解雇に反対し、二〇一四年から二〇一五年にかけて四〇八日の高空籠城をおこなったチャ・グァンホという人物である。当時の朴槿恵政権は、派遣業の適用業種を拡大する法改定や、労働者の解雇を容易にしたり、就業規則の不利益変更を可能にする指針を発表するなどの「労働改革」を実行していたが、二〇一五年一一月からは、これらの政策を批判する「民衆総決起大会」が数度にわたって開かれるなどの動きがあった。日本でもよく知られた「ヘル朝鮮」という言葉が流行したのもこの時期である。カタルシスを避けるようにして結末を迎える『マテニ10号』の読後感は、民衆に生きづらさを強いる社会構造がいまだに強固なものであることを思い起こさせる。このことは、過去の歴史と当面する社会課題を共有する日本の読者にとっても、対岸の火事ではないはずである。(姜信子・趙倫子訳)(あいかわ・たくや=東京大学助教・朝鮮近代文学)
★ファン・ソギョン=満洲長春生まれの作家。韓国の永登浦に移住。ベトナム戦争従軍体験を描く短篇小説『塔』と戯曲『歓迎の帆』で朝鮮日報新春文芸賞。北朝鮮を訪問、国家保安法容疑で手配され亡命生活。九三年韓国に帰国と同時に逮捕され服役。著書に『武器の影』(萬海文学賞)『懐かしの庭』(丹斎賞、恰山文学賞)『客人』(大山文学賞)など。本書は国際ブッカー賞最終候補作。一九四三年生。
書籍
| 書籍名 | マテニ10号 上・下 |
| ISBN13 | 9784560091975 |
| ISBN10 | 4560091978 |
