ミステリー
古山 裕樹
奇抜な設定や派手な仕掛けに翻弄される読書も楽しいけれど、そんな要素がなくともじっくり楽しめる作品がある。それが櫻田智也の『失われた貌』(新潮社)だ。丁寧な人物描写を土台に、地道な捜査の過程を描いて、クライマックスに向けて盛り上げていく。伏線の回収にも無駄がなく、緻密に組み立てられた、きわめて堅実な警察小説である。
若竹七海『まぐさ桶の犬』(文春文庫)も、じっくり味わいたいミステリである。有能だけど不運な五〇代の探偵・葉村。そのシニカルなものの見方が心地よい。彼女は資産家一族のもめごとに巻き込まれ、命を狙われる事態に。複雑に入り組んだ人間関係を解きほぐし、衝撃の真相を導き出す。加齢に伴う体の不調に悩まされながら奮闘する姿に、探偵の誇りを感じる。
伊吹亜門『路地裏の二・二六』(PHP研究所)は、題名通り二・二六事件へと向かう昭和の東京を舞台にした物語だ。主人公は陸軍内部で起きた不審死の真相を追う憲兵。不穏な時代を背景に、史実と虚構を巧みに織り交ぜてみせる手際はこの作者ならでは。
一作ごとに全く異なる顔を見せる潮谷験は、『名探偵再び』(講談社)が記憶に残る。名探偵だった大叔母が伝説として残る全寮制の学園。そこに入学した少女は、推理の能力などないのに、名探偵の縁者として事件解決を期待される。そんな彼女が密かに頼るのは……。作者は奇抜な設定を巧みに活用し、軽妙な物語に強烈な驚きを仕掛けてみせる。
笠井潔『夜と霧の誘拐』(講談社)は、一九七〇年代の欧州を舞台とした〈矢吹駆シリーズ〉の第八作。同じ日に起きた誘拐と殺人。複雑に絡まり合う二つの事件の謎を、矢吹駆が解き明かす。彼らが繰り広げる哲学談義は、ミステリとしての本書に欠かせない重要な要素だ。謎解きと重なり合う巨大な論理構造に酔う快感を味わえる。矢吹駆と哲学者との議論が、今日のイスラエルをめぐる状況を照らし出すところも忘れがたい。
新名智『霊感インテグレーション』(新潮社)は、オカルトとITが交差する物語。怪しげな案件ばかりが舞い込んでくるITベンチャー企業で働くことになった主人公と、訳あり社員たちが怪異に挑む連作短編集。連作ならではの定型の繰り返しと、そこに仕掛けられた驚きを楽しめる。
海外作品では、人気シリーズの新作を楽しむことができた。
アンソニー・ホロヴィッツ『マーブル館殺人事件 上下』(山田蘭訳、創元推理文庫)は、作中作との二重構造での謎解きを描くシリーズ三作目。名探偵アティカス・ピュントが活躍するクラシカルな探偵小説と、その小説を世に送り出そうとする編集者の物語だ。独立したミステリとして楽しめる作中作と、その外側で起きる事件との二重構造という、凝った構成と精緻な謎解きを楽しめる。
M・W・クレイヴン『デスチェアの殺人 上下』(東野さやか訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)は刑事ワシントン・ポーのシリーズ六作目。個性の強い刑事とその仲間たちが、カルト集団の教祖が殺された事件を追う。語りと構成そのものの仕掛けもまた、読者を翻弄してくれる。
アン・クリーヴス『沈黙』(高山真由美訳、ハヤカワ・ミステリ文庫)はマシュー・ヴェン警部シリーズの二作目。地道な捜査の過程をじっくり描く物語だ。丁寧な人物造形と英国南部の自然描写がストーリーを支えている。
以降はノンシリーズものを。マシュー・リチャードソン『スパイたちの遺灰』(能田優訳、ハーパーBOOKS)は、冷戦時代の伝説のスパイから手記を託された、諜報の歴史を研究する学者の物語だ。過去の秘密と現在の謀略が並走し、巨大な力に対峙する個人の矜持が浮かび上がる。
エマ・スタイルズ『銃と助手席の歌』(圷香織訳、創元推理文庫)は、二人の若い女性がオーストラリアの荒野を車で駆け抜けるサスペンス。逃走を続ける二人のぎくしゃくした関係が、徐々に変わっていく過程が印象深い。(ふるやま・ゆうき=書評家)
