2025/05/02号

誘惑者上・下

本書は二〇世紀オーストリア文学を代表する作家ヘルマン・ブロッホの遺作であり、日本では古井由吉の優れた訳業にもかかわらず長く絶版となっていた長編小説の、待望の復刻である。  第二次大戦時、ナチスによる迫害と度重なる経済的困窮にもめげることなく、亡命先のアメリカで『ウェルギリウスの死』という瞠目すべき作品を完成させたブロッホだが、筐中にはもうひとつ、人間の宗教的なものへの希求をテーマとする「進行中の作品」を抱えていた。いつ果てるともない改稿作業が作者の死によって途絶すると、完成した初稿のほかに二つの未定稿が遺された。これらを編纂しひとつにまとめたのが本作『誘惑者』である。  作者の悪癖、もとい美徳である完璧主義ゆえ結果的に未完となったものの、物語そのものは明快な筋立てに沿っている。舞台は一九二〇年代、アルプスの閉鎖鉱山の懐にある二つの村。中央から押し寄せる近代化の波を日増しに感じつつ、先祖代々の素朴な山の生活を営んでいた住民たちが、流れ者の説教師マリウス・ラティの魔術的な弁舌によって徐々に心をつかまれ、熱狂と陶酔のあげく堰を切るように凄惨な事件へ駆り立てられていく。語り手の村医者の目を通して、日々の行き詰まりから安手の救済を求め妄動する「普通の人びと」を描いたこの物語は、繰り返し非合理性へと転落していく群集心理の精緻な分析と見ることもできるし、その政治的支配をめぐる一つの比喩として読むこともできる──役者としての自己演出に長け、自然と男性性を肯う二元論的な言説で社会の分断を煽りつつ、場当たり的な言動を繰り返して村民を手なずけていくマリウスは、たとえば現代的なポピュリストのネガであるだろう。彼の本質は内面の底知れぬ空虚さにあり、その空虚な眼が各人にとって理想的な鏡になるからこそ、村民たちはどうしようもなく彼に惹きつけられてしまうのだ。だがそうであるならば、ここで語られる事件の顚末から読み取るべきはむしろ、語り手の医師をも含めた社会全体の共犯関係である。  しかしこの小説はそもそものコンセプトからして「多層的」であり、それは先の改稿・編集事情も相俟ってきわめて入り組んだものになっている──あえて言えば、編集上の瑕疵もないとはいえない、無数の断層と錯綜した坑道を含む本作こそ、ブロッホが企図した「山の小説」の深みへもっともよく通じているのではないか。それはたとえば村の魔女である「ギションのおふくろさん」を焦点とする神話の層であり、あるいは老境に達した医師の語りのなかでふと浮かび上がる記憶の層だが、なかでもひときわ強い光彩をはなっているのは、やはり山の一年という時間的・空間的な秩序のもと、特異な長文とともに展開される情景描写であろう。それは季節とともに移り変わる周囲の光景を共感覚的にとらえつつ、山道を行く孤独な語り手の歩みのなかで内的思考と溶け合い、具象とも抽象ともつかない観念的な風景へ移行していく。そしてこの天に沖するかのような、これもまた一つの「熱狂的」言語が、若き日の古井由吉という非凡な才能によって平明かつ流れるような日本語の論理とリズムへ移されたことは、本書の「解説」に詳述される通り、一文学作品の受容という枠を越えて、日本の文学史における一つの画期的な出来事だったのだ。  だからこそ絶版が惜しまれていた本作が、今回ついに復刊された。往年の文学全集版らしい重厚なつくりとはうってかわって、手軽に持ち運べるペーパーバックに、水仙の花をあしらった質実で美しい装丁が映える。読みやすい一段組のレイアウトもうれしい。物語の時代設定からおよそ百年を経て、そのアクチュアリティがいささかも失われていないことが明らかとなった現代にあって、「Ein Schritt(一歩)」を掲げる出版社がこの作品を連れて来てくれたことを喜びたい。本書が読者のよき杖となりますように。(はやし・ひろあき=小樽商科大学准教授・ドイツ文学)  ★ヘルマン・ブロッホ (一八八六―一九五一)=ウィーンでユダヤ系の裕福な紡績業者の長男として生まれる。一九三八年にナチスに逮捕拘禁されながらも、『ウェルギリウスの死』の執筆を続け、解放後イギリスを経て、アメリカへ渡る。著書に『ウェルギリウスの死』『罪なき人々』など。『誘惑者』は死後、全集に収められる。  ★ふるい・よしきち(一九三七―二〇二〇)=小説家・ドイツ文学者。「杳子」で芥川賞受賞。訳書にムージル『愛の完成』『静かなヴェロニカの誘惑』など。